【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(3)】僕の得意だったスライダーは感覚的に「ここでリリースしたらこの軌道でここに落ちる」というイメージを持っていました。少し曲げればここに落ちるとか、1992年はイメージ通りのスライダーが投げれていたと思います。

 あまりコーチや先輩にアドバイスをもらうこともなかったし、自分で考えて工夫してやっていました。僕って1年目からフォームを触られていないんです。権藤博投手コーチが「赤堀には何も言うな」とブルペン捕手や他のスタッフにも言ってくれていたんです。高校出たばかりだったんで何か教えてほしいと思うこともあったけど、一切言われなかった。2年目で2段モーションにした時も体が前に出て腕が後に出てくるのが気になったので、自分で考えたんです。自分で考えないと自分のフォームはできないと思っていました。

 基本的には打たせて取り、三振が欲しい時には真っすぐか縦のスライダー。その年は初めて球宴に選ばれ、宮城での第3戦に登板。2番手で3イニングを投げ、無安打に抑えれた。舞い上がっちゃって「いろんな人がいっぱいいてすごいな」って。原辰徳さんと対戦してシュートでバットを折った。緊張しながら楽しめたし、抑えることができて収穫でした。今なら1~2イニングだけど、僕はいつも3イニング投げていたし、全パの森祇晶監督も考えてくれていたのかもしれませんね。

 その年は順調にセーブを重ね、同点の場面で行って終盤に逆転して白星も増えていきました。そして10月に入り、規定投球回の130回にあと15回というところまで近づいた。3失点以下に抑えれば、西武・石井丈裕さんと最優秀防御率を争うことができる…。わかってはいたけど、抑えなのに先発させてくださいなんて言えない。そしたら仰木彬監督から「あと15イニングやけど、どうする? 先発行くか」と言われたんです。

 リリーバーなんでリリーバーのタイトルを狙えばいい、という思いもある。でも、その時点で最優秀救援のタイトルは確定していたので仰木監督に「防御率取るために先発してみるか」と言ってもらい「いいんでしたらやります」と。取れるものは取ってこい、って感じで、残り7試合のうち2試合の先発をもらうことになりました。

 先発は89年に一度、90年に一度しかない。でも今まで通りのルーティンをやり、先発用の練習はやらなかった。ロングリリーフでやってきたし、球数はいつも60~70球は投げている。そこから先は未知数でも残り15回なんで1試合を7~8回くらいで抑え、もう1試合を6回くらい投げればいいかって。他に記録がかかっている投手もいなかったと思います。

 最優秀救援投手も決まり、最後の挑戦。でも、僕は直前になって仰木監督に「やっぱりやめます」と申し出たんです。その理由は…。

 ☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。