【赤堀元之 〝猛牛〟世紀末守護神(2)】1991年の6月に打球が当たって右手人さし指付近を骨折。3か月のリハビリを終えて復帰しても感覚は戻らない。翌92年も抑えを期待されていたのにキャンプでも球速もキレも戻らず、オープン戦でもダメ。どうやったらスピードが出るんだろうと焦っていました。
そしたらオープン戦最終の神戸でのオリックス戦。投げるか投げないかわからない状況でブルペンで投球をしてたんです。すると試合は近鉄がピンチの場面。本番想定でやると聞いていたのでブルペンの電話が鳴った。「赤堀、準備しとけ」と言われ、あと5~6球を投げたんです。その時、急に感覚が良くなったんですよ。137キロくらいしか出なくてずっとモヤモヤして「シーズン入ってどうなるんだろう」と不安ばっかりだったのに、最後の最後で一瞬で戻った。神がかり的というか、なんでそこでそうなったのか…。マウンドでは147キロ連発で抑えた。これならシーズンいける。その試合がなかったら92年の結果はなかったでしょう。
その年はずっとその感覚でいけました。ロングリリーフの抑えで、先発が5~6回まで投げて僕が7、8、9回。3連投もあったし、同点でもいってましたね。仰木彬監督は打倒・西武の思いが強かったので勝っていれば6回途中からいくこともあります。野茂英雄さんだけは勝っても負けても完投するので野茂さんの時は休めました。月曜は試合ないし、負け展開なら出ないし、野茂さんの日も投げないですから大丈夫でした。
監督に信頼してもらっているし、自分の伸びる時期。周りから「お前に任せてる。お前が打たれたらしょうがないから気楽にいけ」と言われていたし、「絶対抑えてくれ」なんて言われたことはなかった。それを意気に感じ、あまり重圧を感じずに投げてました。3イニング投げてれば打線も打ってくれるし勝てるんです。リリーフとして試合に勝てばいい。3点リードしてるなら2点までは取られてもいいという意識です。何が何でも0点に抑えるんじゃなく、逆転されなければいい。
調整法も前年までと変えたことはなく、球種も真っすぐとスライダー、シュート、カーブくらいで変わっていません。でも、縦のスライダーでもストライクを取るスライダー、三振を取るスライダーと自分の感覚で投げ分けました。打者が打ちに来るなと思えば強めに、見送りそうだなと思えば簡単に行ったり…。山下和彦さん、光山英和さん、古久保健二さんと、どの捕手でも問題はなく、攻め方の話し合いなんかやらないですよ。
僕はマネジャーみたいに裏で試合途中までスコアはつけてました。その日の打者の傾向とかを自分に照らし合わせてイメージしてましたね。
その年は初めて球宴にも出場。そしてシーズン終盤には、抑えなのに最優秀防御率のチャンスが見えてきた。
☆あかほり・もとゆき 1970年4月7日、静岡県藤枝市生まれ。静岡高のエースとして2年夏に甲子園に出場し、88年のドラフト4位で近鉄に入団。リリーバーとして頭角を現し、4年目の92年に最優秀救援投手と最優秀防御率をダブル獲得。92~94年、96~97年と5度の最優秀救援投手に輝いた。その後は故障に苦しみ、2004年に引退。指導者としてオリックス、ヤクルト、中日、韓国SKで投手コーチ、BCリーグ・新潟で監督を務めた。22年から関メディベースボール学院でコーチをしながらテレビ解説者としても活躍している。












