【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(24)】1989年、俺は二軍の外野守備走塁コーチになった。最初は島野さん(一軍外野守備コーチ)からいろいろとアドバイスをもらった。コーチになったからといって偉そうにふんぞり返っていてはダメだ。島野さんからよく言われたのが「コーチは裏方だ」ということだった。
球拾いもバッティング投手もなんでもやった。現役を退いたばかりだから肩も足もガンガンに使える。フリー打撃で毎日100球以上は投げていた。このときのドラゴンズ二軍には後にセ、パ両リーグで本塁打王に輝いた山崎武司ら有望な選手がたくさんいただけに若い選手と一緒に汗を流すことにやりがいを感じていた。
二軍のコーチだからといってファームだけを見てればいいというわけではない。夜は一軍の試合の手伝いにも行くこともあった。当時は今と違ってスコアラーの数が少なかったから、ネット裏とベンチとの配球チャートの伝達などもやる。8月12日も俺は二軍の仕事が終わった後、ナゴヤ球場に行き、中日―巨人戦の手伝いをしていたのだが、この試合、最後に大どんでん返しが待っていた。
巨人先発は斎藤雅樹だった。斎藤はこの時点ですでに15勝(2敗)。5月10日の大洋戦から7月15日のヤクルト戦まで3試合連続完封を含む11試合連続完投勝利の日本記録を打ち立てるなど、マウンドに上がるたびに球史に残る快投劇を繰り広げていた。ベンチ裏で映像を見ていても球に力はあるし、コントロールは抜群だしで「すげえな」というのが率直な感想。ストライクゾーンの外側ギリギリに滑るようなスライダーがピッ、ピッと決まるのだから中日打線は手も足も出ない。斎藤は8回まで四球と失策で2人の走者を許しただけのノーヒットピッチングを続けていた。
ベンチでは星野監督が声を張り上げていたが、星野監督も心の中では“今日の斎藤は打てないな”と思っていたはずだ。9回先頭の中村武も空振り三振でノーヒットノーランまであと2人。「これはやられるな」。俺をはじめみんな覚悟していた。
だが、ここから奇跡が起こる。代打・音がライトへヒットを放ち大記録達成を阻止。二死後、川又が四球を選んで一、二塁とすると仁村徹が右前へはじき返してこの日初めての得点を挙げた。
ここで打席に立ったのが4番の落合さんだ。ついさっきまでは静かだったナゴヤ球場のスタンドは一転して大盛り上がり。そして落合さんはみんなの期待に応えた。斎藤のストレートを振り抜いた一撃はセンター・クロマティの頭上を越えてフェンスオーバー。逆転サヨナラ3ランとなった。
落合さんが打った瞬間、みんなベンチから飛び出して大喜び。俺もベンチに出ていったけどあの時のナゴヤ球場はすごかった。このコラムで前に82年9月28日の巨人戦で江川さんを打ち崩して9回に4点差を追いついたときがナゴヤ球場が一番盛り上がったと書いたけど、それに負けないくらいファンも選手も興奮していた。
斎藤はノーヒットノーランが途切れて少し気落ちしていたのかもしれない。でもあの場面でサヨナラアーチを放った落合さんはやっぱりすごい人だと思ったよ。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












