【越智正典 ネット裏】高校野球の審判は春も夏も大会中は審判宿舎―甲子園球場―審判宿舎―の毎日である。ご苦労なことです。おいしい明石のタコ焼きも食べに行かない。呑みにも行かない。外部との接触を一切遮断して自律している。
全国最多試合を挙行する、東東京、西東京大会の東京都高野連の審判は200人を超える。
審判長西尾由紀治(日大二高OB)の濃紺の審判帽はもう変色している。風雪の歴史を物語っている。まだ大事にしてかぶっている。試合が終わるといちばんに先に退去しない。扉を開け、後輩審判に、お疲れさん…といいたげに後輩を先に通してからいちばんあとで退出している。
千葉大会では、一日おきに休みが取れる消防士が奉仕している。消防署勤務が24時間ぶっとおしなのを思うとホントにご苦労さんです。
静岡では、みかん農家の主人公が山を降り、ボール、ストライク!に駆けつけている。地方大会が進まなければ全国大会は成り立たない。
昔、石川啄木が「さいはての町」と詠んだ北海道釧路は、初夏から夏にかけて、霧笛の町になる。
試合開始と同時に外野に向かって走って行く審判の後ろ姿にスタンドから敬愛の視線がとどく。
当時の大会会場は丘の上。球場のそばに八百屋さん。センターのうしろが海。プレーボール! ネット裏からのラジオ放送はときどき、こうなる。
「打ちました。打ち上げました。あっ! 霧です。見えません。しばらくお待ち下さい…赤いランプが灯きました。取った模様です。ツーアウトです」
海霧が去ると「霧審判」の拳固が高く上がっていた…。
1952年、北海高校の2年生投手田原藤太郎(54年に中日に入団)が北海道大会の決勝で函館西高に敗れて一塁側の土堤で泣いた日も霧審判が活躍していた。
プロ野球の審判の試合前の仕事のひとつは、その日に使うボールを箱から取り出してピッチャーが投げやすいように一球一球丁寧に両手でもんで表面のロウを取ることである。
62年、東京・荒川区南千住7丁目(当時の表示)に開場した東京スタジアムで、東京(ロッテ)の小山正明(64年、山内一弘との「世紀のトレード」で阪神から移籍)と西鉄の稲尾和久が投げ合うと、2人とも球威もコントロールも素晴らしかったので使用球は4ダースですんだ。が、世の中が豊かになると、例えば西武球場での使用球は1試合11ダース(132球)、12ダースになるのも珍しくなくなったが、ボールを納める業者にまかせっ放しの審判がふえた。世の中が豊かになったからなのだろうか。
が、パ・リーグの審判中村稔(名古屋電気高校=現愛知工大名電高校、日本ハムの遊撃手、審判出場試合2876、現楽天泉寮寮長)は西武球場で担当の当日、ナイターでもひる過ぎにはもうボールをもむのに余念がなかった。一心な男である。
この仕事を終えると、ひと休み。だが、コーヒーもお茶も飲まなかった。家から持って来た梅干しをしゃぶっていた。暑さ対策である。彼の試合は、このときに始まっていた。 =敬称略=












