【豊田誠佑 おちょうしもん奮闘記(15)】 1986年10月、シーズン途中で休養した山内監督の後任として星野仙一さんが監督に就任した。このとき、まだ39歳。NHKのスポーツ番組でキャスターもしていたから中日OBでは珍しい全国区の人気者だった。
でもテレビで星野監督の就任会見を見て俺たち選手はみんな「お、おぅ…」ってなったね。選手へのメッセージを聞かれた星野監督の口から出てきたのが「覚悟しとけ!」という強烈なものだったからだ。
その言葉通り、1987年から1991年までの星野監督第1次政権時代は本当に厳しかったよ。シーズン中だけでなく、紅白戦でも全力疾走を怠れば怒鳴られる。ベンチに響き渡る怒声はそれはすごいものだった。試合が終わると必ずミーティングをやる。試合でミスしていたらミーティングでも監督から怒鳴り上げられた。ただ、星野監督の中にはその日のうちに起こったことはその日のうちにすべて消化しておこうという気持ちがあった。後には残さない。だからみんな翌日には気持ちは切り替わっていたよ。
星野監督は「ユニホームは戦闘服や」「戦争をやる前に相手チームと話すか」とよく言っていて、試合前のアップのときも相手チームの選手と話すことが禁止された。だから相手チームに大学の先輩がいても会釈をするぐらいで、あいさつを交わすこともできない。もしも相手チームの選手と話していればそれだけで罰金5万円取られるからね。
星野監督時代は新幹線での移動中、マンガを読むことは禁止されていた。ヌードの掲載されている週刊誌もNG。誰が見ているかわからないし、やはりプロ野球選手として行動や身だしなみには気を付けておけということだったと思う。
鉄拳制裁や罰金のことがよくクローズアップされるけど、その一方で星野監督はとても情に厚い人だった。選手の奥さんの誕生日になると星野監督から「誕生日おめでとう」のメッセージと共に花束が送られてくる。あの星野監督から誕生祝いが送られてくるんだ。うちの奥さんも「ああ、覚えていてくれたんだ」と感激していたよ。試合中やミーティングでは本当に怖かったけど、なんだかんだみんな星野監督のことが好きだった。選手もコーチも裏方さんもみんな「この人のために頑張ろう」「この人を男にしてあげたい」という気持ちは持っていたね。
怖さと温かさを併せ持っていた星野監督だけど何よりもすごかったのが決断力と行動力だろう。それは監督就任早々、発揮された。「中日が1対4の大型トレードでロッテから落合博満を獲得!」。86年12月23日に発表された三冠王獲得の大ニュースは日本中を驚かせることになった。
☆とよだ・せいすけ 1956年4月23日生まれ。東京都出身。日大三高では右翼手として74年春の選抜大会に出場。明治大学では77年の東京六大学春のリーグ戦で法政のエース・江川から8打数7安打と打ちまくり首位打者を獲得。「江川キラー」と呼ばれるようになる。78年オフにドラフト外で中日ドラゴンズに入団。内外野をこなせるバイプレーヤーとして活躍し82、88年のリーグ優勝に貢献した。88年に現役を引退後はコーチ、スカウト、昇竜館館長を務め2014年に退団。現在、名古屋市内で居酒屋「おちょうしもん」を経営している。












