【越智正典 ネット裏】往時のヤンキースの記者、ボブ・コンシダインが一人称で「ベーブ・ルース物語」を書いている。

「ボクは7歳まで年月の大部分を父の酒場の上の部屋で暮らした。上の部屋で暮らさないときは酒場暮らし。沖仲士、船員、人足や港の浮浪者の荒々しい言葉づかいをおぼえた。酒場で寝起きしないときは近所の街路で寝起きした。ボクは7歳のときからタバコを噛んだ。これはボクが好きだったわけではなく、そうすることが当たり前のことに思われたからだ」

 私がボルチモアの西カムデン通り426番地、当時のままのベーブ・ルースの生家(現記念館)を訪ねることが出来たのは、ハロルド・エルクスのおかげである。見ず知らずなのに、ご親切に至れり尽くせり、それはありがたかった。1971年夏のことである。

 その日、バスでボルチモアに着いた私は街の人々に「世紀の本塁打王」の生家へ行く道を尋ねた。出来たら歩いて行きたかった。「知らない」「知らない」「いま忙しいんだ」。ヘンだ、誰もが冷たくなっていく。お巡りさんが「知らない!」。

 ひょいと見ると、観光案内所があった。入って話すと若い所員の顔色が変わった。代わって出て来たのがエルクスだった。「所長のハロルド・エルクスです」。きちんとあいさつしてくれた。旅をしていると、その人の顔を見るようになる。いい顔をしてる。「ベーブ・ルースハウスのあたりは特殊なエリアなんだ。分かりますか」。市役所の職員に電話をかけ、それからガムやキャンディーをたくさん買った。近所の子供たちに配るのだ。そういえばニューヨークで「ルースが建てた家」と呼ばれていた旧ヤンキー・スタジアムへ行くときも、コミッショナー事務局のモンテ・アービンがハーレムを通るのでね、とお菓子をたくさん買っていた。アービンは53年秋に日米野球で来日したニューヨーク・ジャイアンツの強打者である。有名な話なのだそうだが、ニクソン大統領が治安強化の法案を議会に提出すると反対多数。するとニクソン大統領は「よろしい。これから護衛なしで自分の車まで一人で行ける勇気がある議員は、いますぐ、ここから出て行ってもらいたい」。満場、声もなかったという。米国の大きな都市で治安が難しくなったのは“ベトナム戦争”の後遺症だったのだそうだ。この旅を始めるまで知らなかったのは私の不明である。

 ルースの生家はレンガ造りの倉庫のような建物で4軒に割ってあった。1軒の幅、間口は3・5メートル。犬がほえていた。市役所の職員が一番端のルースの家の鍵を開けてくれた。1階が船員ら相手の酒場で、2階と3階が居間。居間へ行く階段の幅は35センチ。お手許にありましたらA4の書類などを出していただきますと、よりお分かりいただけると思います。A4の長いほうの一辺が29・7センチです。

 ルースが13歳のときに母親のケイトがこの世を去る。きょうだいは兄と姉。兄は天逝する…。

 =敬称略=