新日本プロレスは3月6日で旗揚げ50周年を迎えた。1日には「旗揚げ記念日大会」が日本武道館で開催され、記念セレモニーには坂口征二相談役、藤波辰爾、長州力、前田日明らそうそうたるOB勢が登場して大会を盛り上げた。IWGPヘビー級王者オカダ・カズチカは来場がかなわなかった創設者アントニオ猪木氏に、改めて熱いメッセージを送った。

 1972年3月6日大田区体育館(当時)の旗揚げ戦メインは、猪木対師匠の“神様”ことカール・ゴッチ。猪木は惜敗して新日本は波乱の船出を果たした。観衆は5000人(満員)を集めたがテレビ中継もなく、旗揚げ前から「何か月持つか」と評されたほどで、旗揚げ戦は本紙1面のサイド記事扱いの小さなものだった。当時はまだジャイアント馬場と坂口征二が在籍した日本プロレスが“王道”とされ、旗揚げシリーズからしばらくは本紙も結果しか掲載しない大会が多かったのも事実だった。

 そんな逆境を打破すべく、猪木が最初に仕掛けた大勝負が72年10月4日蔵前国技館のゴッチとの「実力世界一決定戦」だった。ゴッチの持つ「幻の世界ヘビー級ベルト」に挑むべく一騎打ちに臨んだのだ。すでに馬場は7月に日プロに辞表を提出。新団体旗揚げへ動きつつあった。マット界が波乱の渦に巻き込まれ始めた時期に、猪木は最初の大勝負に打って出た。

 この試合、猪木は名勝負の末、ゴッチから初勝利を挙げる。さすがに本紙は1面でこの快挙を大々的に報じている。

「実力世界一だ――プロレスの神様、カール・ゴッチを新日本プロレスのエース、アントニオ猪木が打破。ついに由緒あるベルトを手にした。試合は猪木が先手を取り、ヘッドシザースからキーロックの波状攻撃でリード。25分過ぎ。猪木がロープ際で必殺のコブラツイスト。ゴッチは体を回転させて場外へ。猪木を抱き起こすとボディースラムから必殺のジャーマンスープレックス(原爆固め)。これがゴッチの命取りとなった。猪木の再三にわたるキーロックで右腕を痛めていたゴッチは、猪木の体をしっかり押さえつけられないまま原爆固めに入ったため猪木の体が傾き自爆となった。両者したたかに後頭部を打ってダウン。レフェリー、ルー・テーズのカウントが開始されたが、ダメージの少ない猪木がリングに飛び込み、ゴッチはカウントアウト。猪木が宿願のゴッチ打倒を果たし、ゴッチの保持する由緒ある“実力世界一のベルト”を獲得した」(抜粋)。

 猪木は10月9日広島でレッド・ピンパネールを退け初防衛に成功するも、翌日の10日大阪ではゴッチにフォール負けを喫して王座を失った。わずか1週間の戴冠。だが猪木が得たものは大きかった。

 馬場は水面下で米NWAとの交渉を進めつつ、10月の全日本プロレス旗揚げへ準備を進める一方、猪木は既存の権威や権力に背を向けてゴッチとの実力世界一決定戦という“名誉”を選んだ。何のバックアップもない状態から自力で無人の荒野を開拓しようという反骨心はまさに猪木イズムの真骨頂であり、多くのファンの共感を呼んだ。

 翌年4月1日には坂口が正式合流し、NETテレビ(現テレビ朝日)地上波放送もスタート。さらには11月5日の「新宿伊勢丹前襲撃事件」を機に、タイガー・ジェット・シンという歴史に残る大ヒールを生み、一大抗争を展開する。常に逆境から過激な仕掛けを続けた新日本は一気に飛躍を遂げて、やがて日本中に熱狂的なブームを巻き起こすようになる。