Jリーグの野々村芳和チェアマン(50)がインタビューに応じ、さまざまな思いを激白した。かねてリーグの人気低迷が叫ばれている中、3月に就任したトップが描く活性化へ向けた構想とは? また、理想とするリーダー像やJ1札幌社長時代の取り組みなどについても語った。

 ――Jリーガー出身という重圧はあるか

 野々村チェアマン(以下、野々村)プレッシャーはないし、自分が考えている世界を実現しようとは思っていない。理想はあるけど、それをベースに置きながら、いろいろな人がどう感じているかの意見を聞きながら。何かを変えるのであれば、みんなで考えて議論する時間が最も大事と思う。サポーターを含めて1年、2年と議論することが日本サッカーの財産になる。多くの人の意見を聞き、議論したい。

 ――人気低迷が叫ばれている

 野々村 ここまでの30年はリーグがJ1をプロモーションしているという感覚。だけど、それぞれ地域の特性や事情が違うので、そこにカスタマイズしたサポートをしたほうがいいんじゃないかと。J2、J3のお客さんを2倍にするという施策があって、例えば、この地域はこれ、この地方はこうやるみたいなカスタマイズがいいんじゃないかな。足元を強くするには、その地域のクラブとして存在感を示せる取り組みが大事だ。

 ――なるほど

 野々村 それと同時にトップをどう伸ばしていくかをやらないといけない。サッカーはクローズドのリーグではない。Jリーグができたころ(初代チェアマンの)川淵(三郎)さんが「プロ野球とは違うスポーツのモデル」と宣言しているわけだけど、そこが難しい。スポーツビジネスは米国とも欧州とも違うものになるかも。もう現場の人は気が付き始めている。

 ――ところで理想とするリーダー像は

 野々村 特別はいないが、参考になったのは岡田(武史)さんかな。選手で(2000年に)札幌に入ったとき、岡田さんはまだ40代の監督で気持ちよくプレーさせてくれながらも、自分で気が付いていない良さをさりげなく教えてくれた気がする。そんなマネジメントができたらいい。いかに空気を変えられるかがマネジメントで大事だと思っている。

 ――座右の銘

 野々村 ないんだけど「起死回生」とか、小学生のときに校長先生が話していた「困ったときこそ真価がわかる」が好きな言葉。追い込まれたときに何ができるか。本当に力を付けておかないと一発逆転なんてできない。いろいろと心配はするけど、基本的な準備はできていると自分で思っている。追い込まれることを気にせず「まずはやってみよう」と。ダメでも「起死回生」できるんだって。サッカーで学んだことでもある。

 ――チェアマンになると思っていたか

 野々村 なぜか節目節目には拾ってくれる人がいた。ずっとサッカーしてきて(白い恋人で知られる)石屋製菓の社長に「札幌の社長をやれ」と言われなければ、チェアマンにもなっていないし、岡田さんが誘ってくれなければ札幌でプレーすることも社長になることもなかった。さかのぼれば大学3年生のときにJリーグができなければ、プロになることもなかった。割と直感で生きているし、自分で運がいいなとは思う。

 ――札幌の社長時代に印象的だったこと

 野々村 コロナ禍で大変になってきたとき、選手たちから給料の自主返納の申し出はうれしかった。日ごろから一緒に「もっと上にいこうよ」「クラブをもっと大きくしていこう」とか、一緒にチームをつくってきたから自主返納はうれしかった。同じ時期にクラウドファンディングをすることになり、営業を中心にクラブパートナーの商品を売るためにやろうとなった。いつも支えてくれる人たちをどう助けるか。自分たちよりも周りに気を配れるのはよかったなと…。クラブがそういう空気感になっていた。
    
☆ののむら・よしかづ 1972年5月8日生まれ。静岡・清水市(現静岡市清水区)出身。幼少からサッカーを始め、地元の清水東高から慶応大へ進学し、95年に市原(現千葉)入りした。2000年に札幌へ移籍するも01年シーズン後に現役引退。09年に道央リーグの小樽FCで現役復帰し11年までプレーした。13年に札幌の社長に就任。22年3月に第6代Jリーグチェアマンに就いた。175センチ、67キロ。