昭和期のリーグ戦における「初優勝」がいかに高い壁だったかは“世界の荒鷲”坂口征二の新日本プロレス、ワールド・リーグ戦初制覇(1976年5月)の記事でもお伝えした。力道山時代から日本プロレスでは、厳然たる「格」が存在しており、不世出の名レスラー“燃える闘魂”ことアントニオ猪木も看板リーグ戦「ワールド・リーグ戦」初制覇は69年の第11回。デビューから実に9年を要した。もっとも猪木は64年から66年春まで米国修行に出ており、帰国する際に豊登の勧誘により日プロを離脱。23歳で新団体・東京プロレスの社長兼エースとなったが、同団体はわずか3か月で破綻。そのため64年から67年まではリーグ戦に参加しておらず、これも初優勝まで時間を要する原因となった。結局、猪木は67年4月に日プロに復帰し、ジャイアント馬場に次ぐ2番手となった。

 しかし当時、猪木の胸中では「打倒馬場」の思いが強まる一方だった。日プロ復帰後の67年10月31日には馬場とのコンビでインターナショナルタッグ王座を獲得。「BI砲」初の王座を手中にした。11月には若手に交じって来日中だったカール・ゴッチ教室に参加すると、オリジナル技のオクトパスホールド(卍固め)を会得する。インタータッグ防衛を重ねながら68年は5年ぶりのリーグ戦参加を果たすが、日本人では馬場に次ぐ2位に終わった。(当時は日本人と外国人がリーグ戦で戦い、それぞれの首位が決勝戦を争った)

 満を持して臨んだ69年のリーグ戦。ここで猪木は馬場と同格の大活躍を見せ、ボボ・ブラジルに敗れるもクリス・マルコフと引き分けて勝ち点6・5で同点首位。外国人はブラジルとマルコフが首位で並んだため、69年5月16日東京体育館で4者による優勝決定トーナメントが行われることになった。ところが、馬場はブラジルと30分時間切れ引き分けに終わったため、続く猪木対マルコフの勝者が優勝という展開に。一世一代の勝負に燃える猪木の激闘の模様を本紙は1面で報じている。

「神宮外苑の森が大歓声でどよめいた。日本プロレスのエース、ジャイアント馬場のWリーグ戦4連覇は成らず、伏兵アントニオ猪木が悲願の初優勝。9000人の観衆は大熱闘に酔った。4強が6勝1敗1分けの得点6・5で並び、史上初の決勝トーナメント第1試合は馬場とブラジルが30分引き分けで星を潰し合った。事実上の優勝決定となった猪木対マルコフ戦は、マルコフの凶器攻撃で猪木が血だるまに。15分過ぎに凶器を奪った猪木が大逆襲。顔面をメッタ打ちの反撃から一気に秘技卍固め。血の海の中で猪木の初優勝が決まった」(抜粋)

 当時の猪木でさえ、本紙では「伏兵」扱いだった。闘魂に火がついたのは必然の結果だった。実は猪木は開幕戦(4月5日)のブラジル戦の1週前に、へんとう腺を切る手術に踏み切っていた。「前年のリーグ戦中にへんとう腺炎症を起こして微熱に悩まされたから万全を期すためだった」と明かしたが、当時の猪木の年齢(26歳)、しかもリーグ戦中に切断手術に踏み切るなど異例中の異例。決意のほどがうかがえた。魔神には敗れたが、その後の快進撃を呼び込んだのは間違いない。

 本紙は「馬場時代から馬場・猪木時代へ。第11回ワールド・リーグ戦の猪木の初優勝で、日本プロレスは新しい時代を迎えた」と断言。猪木は「馬場さんは新弟子時代から俺の目標だった。練習でも試合でも負けまいと自分にムチを打ってきた。馬場さんがいなければ俺は途中でダメになっていたかもしれない。そういう意味では優勝は馬場さんのおかげだ」と感無量の表情で語った。その後「BI砲」の時代が続くも、71年5月19日大阪の第13回大会で馬場が5度目の優勝を決めると、何と猪木は馬場に対戦を表明。しかし「時期尚早」と要求は受け入れられず、日プロ改革を試みた猪木は71年12月に追放処分となってしまう。「両雄並び立たず」という閉塞した現状を打破するため、猪木は72年の新日本旗揚げに向かって無人の荒野へと突き進んでいく。 (敬称略)