【鈴木ひろ子の「レスラー妻放浪記 明るい未来」13】

 世界最大のプロレス団体「WWE」で活躍したKENSO(ケンゾー=47)&鈴木ひろ子氏(47)夫妻による連載「レスラー妻放浪記 明るい未来」。第13回は新日本プロレスの棚橋弘至(45)が登場だ。1999年に新日本入団のケンゾーにとって唯一無二の同期で、プロレスを教えてくれた存在でもある。ケンゾーが手がけた師匠・アントニオ猪木氏(79)の特番制作でも、大きな貢献を果たしたのが棚橋の“プロレス脳”だった。

 ケンゾーは1999年に新日本プロレスに入門しました。唯一の同期が、棚橋選手です。全くタイプの違う2人は、歩む道もスタンスも当時から違っていて、そういう意味では逆にぶつかることもなく、良い関係だったように思います。

 妻の私ですら「ケンゾーに常識的な話をするならタナを通して」と思うほど、ケンゾーはマイペース。何をするにも棚橋選手が頼りでした。当時のケンゾーの道場や試合での面白エピソードを聞くなら、一番正確に把握しているのは棚橋選手です。

 坂口(征二)会長のスカウトでいきなりプロレスラーになったケンゾーに対し、当時の新日本プロレスの厳しい入門テストをクリアしてレスラーとなった棚橋選手はプロレスに詳しく、持論もこだわりもあり、なによりインテリでした。

 新人時代にケンゾーは橋本(真也)選手、棚橋選手は武藤(敬司)選手の付け人という何となく「らしい人選」で、その仕事ぶりは見事に正反対の付け人同士でしたが、リング上ではタッグチームとなりました。
 それからケンゾーは新日本プロレスを退団し棚橋選手とは別々の道を歩き始めましたが、WWEにいる時もケンゾーは日本のプロレス関係者を見つけると「棚橋選手は元気ですか」と尋ね、尋ねられた関係者も「棚橋選手もケンゾーさんはどうですかって聞いてましたよ」と答えるのです。

 そんなたもとを分かった2人ですが、最初に再会したのがハッスル参戦の際でした。

「ケンゾーさん…相変わらずだ(笑い)」

 対談の仕事でしたが、2人は久しぶりにもかかわらず、以前と変わらないスタンスで、ケンゾーの天然っぷりに取材の中でも棚橋選手が突っ込みます。

「ケンゾーさんの新人時代のエピソードですか。2人で体をつくってる時で、俺が卵を飲むのがきついって言ったら、ケンゾーさん『マヨネーズかけたら結構うまいよ』って言ってました」

 2人は取材が終わってもなお、WWEのことやハッスルのこと、報道されない選手同士の話に驚きながら、お互いテレビで見るほど楽でも華やかでもない、現実の中で必死に踏ん張っていることを感じていました。

 それからメキシコで再会し、ケンゾーが帰国して全日本プロレスに入団してからも再会し、今はテレビマンとして番組制作する中で、棚橋選手ともまた一緒に仕事をしています。「タナは、新日本が大変な時も踏ん張って支えてきてるから」というのがケンゾーの口癖です。

 ケンゾーがプロデューサーとして制作したアントニオ猪木会長のNHK特番「燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~」に使用した猪木会長の試合シーンも、実は棚橋選手のセレクト。新日本プロレスでの新人時代、ケンゾーは同期の棚橋選手から新日本について、プロレスについて、いろいろと教えてもらっていました。

 そこでいつも聞かされていたのがアントニオ猪木会長VSビッグバン・ベイダーの一戦(96年1月4日、東京ドーム)でした。

「タナからずっと聞かされていた試合だから」

 それは当時、棚橋選手がプロレス談議になると「プロレスに必要な要素がすべて詰まっている」と語っていた試合で、当時はあまり響いていなかったようですが、キャリアを重ねるうちに徐々にケンゾーの心に響いていったようでした。

「猪木会長のヒストリーに使うなら、あの一戦だと決めてた」

 プロレスはタナの言うことに間違いない。同期の棚橋弘至が大好きなケンゾーなのです。

 ☆すずき・ひろこ 1975年2月日生まれ。千葉・船橋市出身。明大卒業後に福島中央テレビにアナウンサーとして入社。2003年にケンゾーと結婚し翌年に渡米。WWE入りした夫とともに、自身は日本人初のディーバ「ゲイシャガール」として大活躍。ハッスルやメキシコマットでも暴れ回った。現在は政界に転身し、千葉県議会議員を務める。一児の母。

 ☆ケンゾー 本名・鈴木健三。1974年7月日生まれ。愛知・碧南市出身。明大ラグビー部を経て一度は就職するが、年に新日本プロレス入り。2002年2月にアントニオ猪木から当時混乱していた新日本の現状を問われてリング上で「僕には自分の明るい未来が見えません」と発言したのは語り草だ。その後は米WWE、ハッスル、全日本プロレスなどで活躍。現在は共同テレビジョン勤務。191㌢、118㌔。