“最強”“怪物”と呼ばれた全日本プロレスの元3冠ヘビー級王者、ジャンボ鶴田さんが2000年5月13日に亡くなってから、今年で23回忌を迎える。5月31日には後楽園ホールで「23回忌追善興行」が開催され、ミスタープロレス・天龍源一郎、“不沈艦”スタン・ハンセン氏ら故人とゆかりのあるメンバーが多数集結する。

 デビュー当時から破格の存在だった。1972年10月に全日本に入団した鶴田は、すぐさま米国テキサス州アマリロのファンク道場で修行を積み、翌73年3月24日アマリロでのエル・タピア戦でデビューして勝利。デビュー2か月後の5月20日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。8月9日にはスタン・ハンセンとザ・ファンクスのインターナショナルタッグ王座に挑むという破格の扱いを受けた。

 衝撃の凱旋帰国を果たしたのは、約150戦の経験を積んだ半年後の10月6日後楽園のムース・モロウスキー戦。高角度で伸びのあるドロップキックで場内を驚かせて12分53秒、チキンウイングからのジャーマンで投げ捨て、3カウントを奪った。鶴田は「とにかくガタガタ震えて硬くなった。最後のスープレックスは失敗だった。でもまだ22歳。若いんですからこれから。もっともっと努力していい試合ができるよう頑張ります」と実に冷静にコメントしている。

 驚くべきことは凱旋試合のわずか3日後の日本デビュー3戦目、10月9日蔵前国技館でジャイアント馬場のパートナーとして、ドリーとテリー・ファンクのザ・ファンクスが保持するインターナショナルタッグ王座(61分3本勝負)に挑戦したことだ。異例も異例の大抜てきだった。当然、周囲からは「あまりに早期過ぎないか」と不安視する声も相次いだが、鶴田はファンや関係者、そして馬場の想像をはるかに超えたポテンシャルを見せつけた。

 テリーには鮮やかなジャーマンを決めた(東スポWeb)
テリーには鮮やかなジャーマンを決めた(東スポWeb)

 1本目は馬場のアドバイスを受けながら試合を進め23分57秒、何と鶴田が原爆固めでテリーをフォール。2本目はテリーが鶴田を回転エビ固めで丸め込んでタイに。そして決勝ラウンド。本紙記事の小見出しには「鶴田4つの原爆固め(注・スープレックス)で大暴れ」の文字が躍っている。ジャーマン、サイドスープレックス、フロントスープレックス、ダブルアームスープレックスの4種類だ。鶴田は61分間、躍動し続けて持てる技を全て出し尽くした。

「いつ果てるともない死闘は30分、40分と続いた。ジュニアの波状攻撃を耐え抜くと第4のスープレックス(注・ダブルアーム)をジュニアにヒット。ヤングに互角の勝負を挑まれファンク兄弟はたじろいだ。タイムアップ寸前、馬場が猛ラッシュ。ネックブリーカーでジュニアを沈め、フォールに入ったがカウント2でタイムアップのゴング。王座奪還はならなかったが、馬場の顔は愛弟子・鶴田が大きく成長した喜びに輝いていた」(抜粋)

 61分間、ほとんど動き回っていたのだから、全盛時に“怪物”と呼ばれた超人的なスタミナの下地は22歳ですでに完成していたわけだ。馬場も「俺の出る幕はなかった。技は申し分ない。あとは試合の駆け引きさえ覚えてくれればいい」と絶賛した。本紙も「鶴田にとってはこの夜のタイトル戦が本当の意味のデビュー戦となった。試合後、師匠の馬場は『タイトルは取れなかったがよくやった。満点のデキと言っていい』と語った。本当のデビュー戦(モロウスキー戦)は70点だった鶴田はこの日、本領を発揮したといっていい」(抜粋)。

 マット界でも前例のない衝撃の凱旋帰国だった。馬場とのコンビでファンクスからインタータッグ王座を奪取するには75年2月まで時間を要したが、76年8月にはジャック・ブリスコとのUNヘビー級王座決定戦を制してシングル初戴冠を果たす。日本デビュー戦と日本初王座戦は、鶴田の“最強伝説”の幕開けでもあった。 (敬称略)