【昭和~平成 スター列伝】完全骨折でも休めず…ラッシャー木村〝ギプス姿の鬼〟に!

2021年10月24日 10時00分

木村は右足にギプスをつけたままザ・クエスチョンとの金網戦を強行(東スポWeb)
木村は右足にギプスをつけたままザ・クエスチョンとの金網戦を強行(東スポWeb)

 プロレスラーにケガはつきものだ。現在は各団体の選手層がいずれも厚く、医療技術とリハビリ環境も発達したため、重傷を負った場合は即長期欠場に踏み切る場合が多い。選手生命などを考えれば、ベストな選択といえる。

 だが昭和の時代はケガで試合を休むことは、なかなか許されない状況にあった。まだ「根性論」が根強かった時代である。そんな状況下、スター選手の少なかった国際プロレスで奮闘を見せたのが“金網の鬼”と呼ばれたラッシャー木村だった。

 木村は1970年8月に海外遠征から帰国。当時29歳ながら、次代のエースへの道を開くべく同年10月8日大阪府立体育会館で、謎の覆面男ドクター・デスと日本初の金網デスマッチを行い、大流血戦の末にパイルドライバーでデスをKOした。

「金網デスマッチはきょうで4度目。米国ではスタン・ブラスキー、ザ・モンゴル、ザ・バイキングと戦った。出血がひどくてフラフラになったが、やらなければ殺されると思って夢中で戦った」と語っている。

 木村のタフネスさが驚異的だったのはここからだった。同年最終戦の12月12日台東体育館ではオックス・ベーカーと金網デスマッチで激突。東京では初の金網とあって当時の国際としては異例の5500人(超満員札止め)の大観衆を動員した。

 オックスのかみつき攻撃、イス攻撃で大流血。ダウン寸前になった木村の右足に、オックスは執ようにイスをふるい続けた。最後は木村が執念のクロスチョップからパイルドライバーを決めるとスリーパーホールドで絞め落としてから失神KO勝ち。本紙は「その後30秒待ってもベイカーは立ち上がらず、10カウントが数えられKO負けとなった」と報じている。

 ところが木村のダメージも大きく「右足腓骨完全骨折」の重傷を負ってしまう。試合後は救急車で運ばれて、右足はギプスで完全固定され、長期欠場を強いられてしまった。初の東京での金網デスマッチ成功の代償はあまりに大きかった。

 当時はエースのストロング小林が海外遠征中で選手層は手薄な状況だった。そのため木村は、完治しない状態のまま翌年3月2日東京体育館のビッグマッチ参戦と、金網デスマッチ挙行を吉原功社長に直訴。大会のカードの弱さを強化するため、ギプスをつけたまま謎のマスクマン「ザ・?(クエスチョン)」と日本3戦目の金網デスマッチに出陣した。

 本紙は「不死鳥というべきか右足骨折の大ハンディを背負いながら、木村は血の海の中から立ち上がる。だが勝利への執念で?のノドを締めつけた。20秒、30秒、そして窒息状態が80秒に達すると血だらけの?は失神。勝った木村は仮面をはぐと何と3年前の日プロW・リーグに来日したアンジェロ・ポッフォの悪相が出てきた。?の正体は血海の中で暴露された」

 まさに“金網の鬼”の面目躍如だった。ちなみにポッフォはあの“マッチョマン”ランディ・サベージの父親。木村は当時無冠だったが、国プロの屋台骨を支えるべく約4年間も金網デスマッチで奮闘。73年6月には当時初来日で若き日の“狂乱の貴公子”ことリック・フレアーも金網戦で迎え撃った。ようやく木村がシングル王座を獲得したのは75年4月19日札幌。マッド・ドッグ・バジョンからIWA世界ヘビー級王座を奪い、名実ともにエースとなった。

 しかしデスマッチ路線の全責任を背負って戦い続けてきたため、全身はボロボロで両ヒザや腰は限界に達していた。81年の団体崩壊後は、新日本プロレスのアントニオ猪木との抗争に打って出たが、体にムチを打って戦い続けた。素顔は無口で穏やかな人だったが、70年代、金網の中では間違いなく木村は「無敵の鬼」だった。 (敬称略)

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