ハイブリッドレスラー・船木誠勝(52)が、これまでに遭遇した様々な事件の裏側や真相を激白する大好評企画。今回は1986年4月29日、三重・津市体育館で行われた前田日明 vs アンドレ・ザ・ジャイアント(故人)戦の舞台裏&真相に迫っていく。究極のセメントマッチとなった伝説の一戦。その場で見届けた船木はいったい何を見、何を聞いたのか――。

【THE FACT~船木が見た事件の裏側(8)】カードが発表されたときから「大変なことになるかもしれない」と自分たちは思っていました。そして試合が始まると(アントニオ)猪木さんをはじめ全レスラーが見てました。全員です。何かが起きると思っていたからでしょう。

 自分は試合前に偶然〝ある場面〟に出くわしていました。前田さんがレフェリーのミスター高橋さんに「どうしたらいいんですか」と大声でかみついてるんです。高橋さんは「そんなの知らないよ。アンドレがそういうふうに言ってるんだから」と言って立ち去っていく。前田さんはポツンと立ちつくしていました。どうなるんだろうと思いましたね。

 前田さんは試合を何とか成立させようとしていました。でも、アンドレは全く応じない。セメントで危険な攻撃を続ける。さすがに前田さんも業を煮やしてリングサイドの星野(勘太郎)さん(故人)に「行っていいんですか」と何度も聞いてました。星野さんは黙ったままです。そしたら藤原(喜明)さんが出てきて「何してんだ。早く行け! 殺されるぞ!」と。

 藤原さんの言葉で前田さんもようやく攻めだしました。危険なキックです。膝を真正面から直角に蹴ったりしていくと、アンドレはリングに寝転んだまま立とうとしなくなりました。効いたんでしょう。アンドレは両手を大きく開いて薄笑いしながら寝そべるだけでした。戦意喪失に見えました。

 そこに「前田、勝負だ勝負だ」と猪木さんがリングに乱入。藤原さんたちUWF勢もリングに入ってきて、猪木さんに突っかかっていって揉み合いになりました。ここで無効試合のゴング。お客さんも異様な雰囲気で騒然としてましたが、レスラーたちも変な空気になってましたね。

 前田さんは相当な恐怖だったと思います。何といっても相手は大巨人アンドレです。223センチ、236キロですから、殺されるかもしれないと思ったでしょう。事実、そういう場面が何度かありましたし。試合後、前田さんは星野さんに「何で助けてくれないんですかっ」と泣いて大声で訴えてましたから。タクシーに乗り込むまで付いてきた東スポの記者さんにも「俺にも家族がいるんだっ」と顔面蒼白で声を震わせてたそうです。

 でも、アンドレとあそこまでやったのは世界中で前田さんだけで、しかも倒しちゃった。そしてアンドレが倒れたときにトドメを刺そうと思えば刺せたのに、刺さなかった。結果的に前田さんの株を上げることになりましたね。アンドレの面子も保ったわけですから。

 この前、前田さんにあの時どう思っていたのか聞いたんです。そしたら「セメントになるならなるで仕方ない。でも潰したら、それがテレビで流され自分、UWFの品が下がる。もうテレビに使ってもらえなくなる。だから、どうしようか。ちゃんと試合を成立させないと、と思ってたよ」と話してました。前田さんはこの時からUWFを再興するつもりだったんでしょうね。

 それはともかく、何でこんなセメントマッチになったのかということです。UWFのスタイル、特に前田さんはそのスタイルを崩そうとしなかった。なので他のレスラーからは嫌がられていました。そのうえ、誰も前田さんを直すことができない。それでアンドレにやってもらおうとなったんじゃないかと考えられますよね。アンドレは前田さんと特に接点はなかったんですから。

 試合を組んだのは当時のマッチメーカーである坂口(征二)さん、藤波(辰爾)さん、ミスター高橋さんですが、当事者のアンドレが亡くなってしまったので、真相は藪の中です。

 ただ、自分は大きさ・強さ世界一のアンドレを倒した前田さんは「プロレス」を食っちゃった(制した)と思いました。その年の10月のドン・中矢・ニールセン戦と合わせて完全に「UWFの方が正しい!」となりましたね。


【今回の事件】1986年4月29日、新日本プロレスの三重・津市大会で実現した前田―アンドレ戦。アンドレは前田とプロレスの試合をしようとせず、羽交い締めしたまま全体重をかけて押し潰そうとするなどセメントマッチを仕掛けてきた。前田はアンドレの膝にキックを打ち込みダウンさせ、アンドレが戦意喪失とみなされて26分35秒、無効試合となった。当日はテレビ朝日が録画していたが、試合内容から放送を見送り。それだけに試合のビデオはマニアの間で〝裏ビデオ〟として流通するほど伝説化した。

 ☆ふなき・まさかつ 本名は船木優治(まさはる)。1969年3月13日生まれ、青森県弘前市出身。84年、新日本プロレスに入門。翌年に15歳11か月の史上最年少デビュー(当時)を果たした。89年、UWFに移籍。その後、藤原組を経て93年にパンクラスを設立。ヒクソン・グレイシーに敗れ引退したが、2007年に現役復帰。現在はフリーとして活躍。181センチ、90キロ。主なタイトルはキング・オブ・パンクラシスト、3冠ヘビー級王座。得意技はキック、掌底など。