頸髄完全損傷でリハビリ中の帝王・高山善廣(52)が本紙のインタビューに応じ、現在の心境を激白した。あの事故からもうすぐ2年。一時は「死」を覚悟しながらも家族、仲間、そしてファンに支えられ奇跡の“復活”を目指す。「プロレス夢のオールスター戦」(東京スポーツ新聞社主催)から40年となる8月26日には東京・後楽園ホールで2回目の高山支援大会「TAKAYAMANIA EMPIRE」が開催されることも決定。長い闘いを続ける帝王は今、何を思うのか――。
――5月4日であれから2年だ
高山:早いね。あの直後は「何で生きているんだろ」って思っちゃった。正直ね、「このまま死んじゃったほうが楽だ」と思った。なんか重くなっちゃうよ、こんな話したら。今でこそ自分の手と足があることは分かるんだけど、意識が戻ったばかりのころは体が全くないと思ったくらいだった。下を向けないから、目でも確認できない。それくらいひどい状態だった。だから「あーあ。ダメじゃん。もう終わりじゃん」しかなかった。そのほうがミッキー・ロークの映画(※注1)みたいに格好よく終われたじゃん。
――どう気持ちを切り替えたのか
高山:奥さん(奈津子夫人)にその言葉をボヤいちゃったんだ。そうしたら「(12歳の)子供もいるんだから、そんなこと言わないで!」って。なんか申し訳なかったね。あと子供がさあ、俺が倒れたと聞いた時、うずくまって動かなくなったと聞いてね。
――レスラー仲間たちもすぐに支援の手を挙げてくれた
高山:本当にうれしかったよ。(鈴木)みのるちゃんだって真っ先に病院に来てくれたしさ。ありがたいよね。偉そうに暴れているだけのオッサンなのにみんな優しすぎる。
――長い闘いが続くが、支えになっているのは
高山:目標があるんだ。単純に言えばプロレスはもうできないけど、リングを自分の足で下りてないわけじゃん。担架で下りちゃったから。だからファンの前で「プロレスを辞めます」って、自分の足でリングを下りるのを最後に見てもらいたい。ちょっとずつだけど、良くはなっているんだよ。足の裏が感じるようになっているからね。
――その後もマット界での事故が相次ぎ、プロレス界で議論が起きた
高山:危ないからみんな、さっさと辞めたほうがいいよ! というのは冗談で、おっかなびっくりやってるやつは一生トップにはいけない。プロレスラーになった以上、自分でストップするのは無理。そこは周りが考えてくれないと。それこそWWEみたいに「こういう選手は使いません」みたいに(ルールを)きっちりしないとね。
――多くの先輩たちも見舞いに来てくれた
高山:前田(日明)さんが来た時はめちゃくちゃ緊張してさあ。ガチガチに首が固まっちゃった。天龍(源一郎)さんは「高山選手だったら大丈夫。リングに立てるようになるから」って励ましてくれた。あのおじさんはああ見えて常識人だったよ(笑い)。
――2017年4月に「急性心不全」「右脚蜂窩(ほうか)織炎」「感染症」を患った元横綱曙(49)も闘病中だ
高山:横綱もああいう状態から意識が戻って、(元横綱三代目)若乃花(花田虎上氏)と再会したテレビがあったじゃん。あの時、目つきが変わった。そういうのを忘れないで頑張ってほしいね。お互い自分の足で歩けるようになって、東スポで対談だね。チーム「リハビリ」ってさ。
――8月26日には「TAKAYAMANIA」が開催される
高山:何で8・26(※注2)か知ってる? 後楽園のスケジュールを見て8・26が空いてるって知ったら、当時のプロレス小僧としてはその日を選ばないわけないじゃん。あとは東京スポーツさんが大協賛してくれると踏んだから(笑い)。カード? 団体さんのスケジュールによるから、まだ分からない。適当なこと言って「うち、空いてません」って言われたらシャレにならないじゃん。最近の新日本プロレスワールド(動画配信サイト)を見てる子は分からないかもしれないけど、8・26は特別な日だね。
――最後に
高山:プロレスラーだけど、ベッドで寝ているだけのオッサンを応援してくれて本当にありがとうございます。いつになるか分からないけど、ファンの人たちの前に出てあいさつをしたい。俺が(1992年6月28日に)デビューした博多スターレーンが終わった(3月31日で閉館)なら、俺もきっちりプロレスラーを終わりたいから。そのために今、リハビリをやっています。
※注1=2008年公開の映画「レスラー」でプロレスラー役のミッキー・ロークは心臓発作によりプロレスの道が絶たれながらも、再びリングに。死を覚悟しながら、必殺の空中殺法を狙った。
※注2=1979年8月26日に東京スポーツ新聞社創立20周年記念として日本武道館で「プロレス夢のオールスター戦」が開催された。メインではジャイアント馬場、アントニオ猪木のBI砲が約8年ぶりに復活して、大観衆を熱狂させた。
☆たかやま・よしひろ=1966年9月19日生まれ、東京・墨田区出身。92年6月28日のUWFインター博多大会の金原弘光戦でデビュー。その後キングダム、フリーを経て99年に全日本プロレスに入団。分裂後はノアに移籍するが、2001年から再びフリーになり、総合格闘技のPRIDEにも参戦した。02年にノアのGHCヘビー、03年には新日プロのIWGPヘビーを獲得。04年8月に脳梗塞で2年間欠場するも、復帰後の09年に3冠王者となり、3大主要団体のシングルとタッグを全て獲得した。196センチ、125キロ。