【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(14)】ドラゴンズは1997年から本拠地をナゴヤドーム(現バンテリンドーム)に移しました。しかし広いナゴヤドームでの野球になかなか対応できず、ドーム元年は最下位。すると星野監督はオフに大豊、矢野(現阪神監督)を放出して阪神から関川、久慈を獲得するなど機動力を中心とした守り勝つ野球にチームをチェンジさせていきます。

 そんなドーム野球でリリーフ陣の柱として活躍したのが落合英二です。あの落合博満が中日在籍時に「日大にオレと同じ名前のすごい投手がいるんだ」と言っていたほどアマチュア時代からすごいボールを投げると評判の投手でした。

 91年ドラフトで1位指名されて中日に入団した落合英でしたが、大学4年生のときに右ヒジを骨折していました。そこで私は肘頭骨骨折の手術で実績のある複数の病院を調べました。その中から選んだ岡山の病院で、92年に落合英は右ヒジにサファイアを埋め込んで補強する手術を行ったのです。これが成功し、右ヒジの不安は解消。落合英は98年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得し、99年には岩瀬、韓国の宣銅烈、サムソン・リーとともに強力リリーフカルテットを形成してリーグ優勝にも貢献しました。

 その後の山田、落合政権でも活躍した落合英でしたが、グラウンドでの活躍だけでなく、人間的、人格的な部分でもドラゴンズの歴史に残る選手でした。先輩、後輩分け隔てなく接し、親身になってチームメートの相談にも乗る。ナゴヤ球場の隣には「竜」というラーメン屋があります。選手やスタッフ行きつけの店なのですが、落合英は朝、練習前にそのラーメン屋に寄って店の主人に「うちの若手が来たらこれで払っといてください」と1万円を渡したりしていました。朝倉、高橋聡文、小山(現楽天投手コーチ)らやんちゃな選手たちもみんな慕っていましたね。

 現役時代晩年には故障もあって二軍にいることも多くなりましたが、中日二軍が広島遠征に行くときのこと。ドラゴンズでは一軍の移動はグリーン車で、二軍は普通の指定席なのですが、落合英が自腹で二軍投手陣全員をグリーン車に乗せたことがあったのです。「一軍に行けばみんなグリーン車で移動できるんだ。頑張れ」。落合英はそうやって二軍の若手選手たちにプロで活躍したい、成功したいという気持ちを植えつけようとしたのです。

 2006年に引退後は解説者やロッテの投手コーチを務め、現在は韓国のサムソン・ライオンズで二軍監督をしている落合英ですが、現役引退後はまだ一度もドラゴンズのユニホームを着ていません。中日球団からは何度かオファーがあったみたいですが、すべて断っています。でも私はそれが残念でならないのです。ドラゴンズで育ち、ドラゴンズの誰からも愛されて指導者としての実績もある落合英は、ドラゴンズに絶対に必要な人材だと思うからです。

 私は球団社長にも「こんないい人材がドラゴンズの外にいるんですよ。何としても呼び戻すべきです」と言ったことがありました。落合英にはいつかまたドラゴンズのユニホームに袖を通してほしい。今でも心の底からそう思っています。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。