【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~】1986年から中日のトレーナー、2007年から昇竜館副館長として長年、ドラゴンズを支えてきたのが昨年6月で球団を退職した伊藤鉦三氏(75)だ。チーフトレーナーとしてベンチ入りしたゲームは1500試合以上。星野(第1次)→高木(第1次)→星野(第2次)→山田→落合→高木(第2次)→谷繁→森→与田と7人の監督のもとで働き、「昭和」「平成」「令和」すべての時代のドラゴンズを知る男が、熱い戦いの歴史を振り返る。

 読者の皆さま、はじめまして。中日ドラゴンズでチーフトレーナー、そして昇竜館の副館長をしておりました伊藤鉦三と申します。星野元監督に誘われてドラゴンズに入ってから昨年6月に退職するまで約35年、中日球団でお世話になりました。今回、東スポさんからお話をいただき、我が愛するドラゴンズの歴史について語らせていただくことになりました。どうかお付き合いください。

 私は愛知県生まれで名古屋の享栄商業(現享栄高校)野球部出身です。左投げのエースとして昭和38年には春の選抜大会に出場。2回戦で北海(北海道)に1―5で敗れましたが、甲子園のマウンドで投げたのは良い思い出です。

 高校卒業後は日通浦和に入社し、社会人でも野球を続けていたのですが、そこでチームメートだったのが後にロッテの主力投手として活躍し、74年にはパ・リーグMVPに輝いた金田留広。あの400勝投手・金田正一さんの実弟です。金田正一さんといえば私の母校・享栄商業の大先輩でもあります。そういったご縁もあって休日には留広に連れられて東京・目黒にある金田さんの自宅に何度か遊びに行ってました。高校の後輩ということもあって巨人の大エースである金田さんは私のことをかわいがってくれました。

 私は高校1年生のときに左ヒジの軟骨除去の手術を受けたのですが、日通浦和でも同じ左ヒジ痛に悩まされ、社会人2年目のときに再び軟骨除去の手術をしました。そして社会人4年目のときです。故障について相談したところ、私の曲がっている左ヒジを見た金田さんはこう言ったのです。「これはもうプロには行けないな。野球はやめた方がいい」。

 そして私を車に乗せて新宿にある「小守スポーツマッサージ療院」に連れて行ってくれました。そこはスポーツトレーナーの草分け的存在である巨人軍の小守良勝トレーナーの診療所でした。金田さんが小守先生にお願いしてくれた言葉は今でも忘れられません。「先生、こいつのヒジはどうですか。使いものにならないなら、トレーナーにしてやってください」。このひと言が後に私を中日ドラゴンズと結びつけることになったのです。

 ☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2005年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。