【高橋雅裕 連載コラム】古巣の横浜が日本一に。気分は…悪いですよ(笑い)

2020年07月21日 11時00分

98年、古巣の横浜が優勝。複雑な思いが込み上げた(写真は佐々木投手)

【高橋雅裕「道なき道の歩き方」(9)】ロッテに移籍して1997、98年と連続最下位。98年には6月から7月にかけて18連敗の日本記録を作ってしまいました。その年は僕が2年前までいた横浜が38年ぶりにリーグ制覇し、日本シリーズも西武を下して日本一に輝きました。気分は…悪いですよ(笑い)。なんで俺がいた時にできないんだって。監督が権藤博さんになったくらいで、いくらもメンバーは代わっていないでしょ。持ってないですねえ(笑い)。

「そういう星の下」ってあるのかなって。

 でも僕の今の苦労は先に生きると思っていました。優勝の経験がないからうれしさはわからなくても、弱者の気持ちや考え方はわかる。強いチームの考え方は表向きしかわからないでしょ。「うれしい」とはどうなんだろう?というね。結果的にはチームの仲が悪かろうが何だろうが、数字を残せるかどうか。数字を残せば勝てるな、と思いますよね。

 野球チームが優勝するのはいいことなんだけど、底辺を知っておくのは悪いことではないし、気持ちが強くなるし、後に指導者になるうえでも生きてくる。やっている時はつらいですけどね。亡くなられた野村克也さんみたいに弱いチームを強くしたら説得力がすごくあるし、話が入ってきやすいですよね。

 プロ最終年となった99年はロッテの山本功児監督のもと、51試合の出場で3割2分5厘の成績を残せました。最終打席で中前打を打ったんで来年もできるぞ、と思った(笑い)。その後、秋季キャンプ前に浦和で練習中に足の肉離れを起こしたんです。次、走ったら切れるな、と思ったらコーチが「ええやないか。もうオフやないか」と言われて走ったらほんとに切れちゃった。

 それで翌日から球拾いや用具の手伝いをやっていたら首脳陣の人から「マサ、お前、横浜から(復帰の)話はないよな」と確認され「ないですよ」と言ったら「ロッテでコーチをやってくれ」と言われたんです。選手を続けるならコーチの兼任はないと…。ケガが治ればいけると思ったし、バントでも誰にも負ける気はしなかった。俺の生きる道はまだあると思っていた…。

 家族とも相談した結果、僕は引退を決意し、功児監督のもとで一軍外野守備走塁コーチをやることを選んだんです。監督に必要とされている時にやった方がいいということでね。

 ロッテの指導者を3年やって思ったことは戦力不足というより技量不足。できることを褒めるより、できない部分を減らし、総合力を上げることを心掛けました。そのロッテも僕が退団して3年後の2005年に日本一。僕がやってきたことが後で結果が出たな、と思ってますよ。誰を育てたなんて言うつもりはないし、ほんのちょっとでも僕がいたことのプラスはあったのかなって思っています。

 ☆たかはし・まさひろ 1964年7月10日、愛知県豊明市出身。名古屋電気(愛工大名電)で1981年夏の甲子園大会に出場。82年のドラフト会議で横浜大洋に4位指名され、入団。内野手として88年に全試合に出場。88年から89年にかけて遊撃手の連続無失策(390連続守備機会)を記録した。96年オフにロッテに移籍し、99年に引退。2000年からロッテ、楽天、横浜で守備、走塁コーチを歴任した。11年には韓国・起亜、16年から4年間はBCリーグ・群馬でも指導した。現在は解説者や少年野球の指導にも当たっている。