【ネット裏 越智正典】星野仙一の「監督付広報として闘将を支え、名伯楽でもあった」早川実の「仙さんとともに」が終わった。早川は書かなかったが、中日現役投手後、用具係になった。試合が終わり片付けをしていると球団の偉いさんから電話がかかってきた。

「A選手とB選手のサインボールを持って来てくれ」。届けるように言われる先は決まってバー。負け日もそうだった。「なに、なに、CとDのも欲しいのか。早川、これから戻って二人のも持って来てくれ」。早川は涙した。

「偉い人がこんなことでいいのか。優勝出来るわけがない」。書かなかったのはドラゴンズが大好きなのである。

 彼は1986年秋、中日の監督に就任した星野に抜擢されてコーチ兼監督付。今度の連載を「星野さんには感謝しかありません」と結んでいるが、88年10月7日、ドラゴンズがナゴヤ球場で優勝を決め、星野の胴上げがいままさに始まろうとしていたときに星野の下にもぐり込み星野が落ちないように、カッコよく両手をひろげられるように星野のベルトをしっかりつかんでいた。

 33回の話が終わったので、そうだ! と早川と仲がよいテレビ番組の制作会社「マイ・プラン」の常務、柴崎能文に会った。名前の能文を「誠」と読んでもいい男である。

 人生の「アヤ」は不思議である。柴崎は由紀子夫人の叔父さんに手伝ってくれないかと頼まれた。婚約中だったので断れない。

 叔父は一机を借りると事務所になるところに星野のゴルフ仲間だけで、中日で現役を終えた星野の会社を作る準備を進めていた。地図を貰った柴崎は東京新橋、機関車広場のすぐそばのシックなビルを見上げていた。

 彼はここで全事務所の主宰、水野三樹子に学ぶことになる。美しいひとだ。車椅子で立ち寄る東京都アイスホッケー連盟会長江守栄作をはじめ、大学教授、JAL、JR…の役員、お客さんは多彩だ。だれもが水野に会いに来る。柴崎は毎日、たなびく雲を見るような思いだった。

 星野にとっても東京に出て来たのは「アヤ」であった。渋谷区初台で言葉の研究会社「ホツマ」を開いていた主筆神崎孟、すみ子の知遇を得る。NTT民営化前夜の電電公社の牧山武一愛知支社長らに紹介される。水野に導かれて星野は“全国区”になって行く。

 柴崎と早川が仲よくなるのに時間はかからなかった。星野が中日の第一次監督になった沖縄キャンプ。スキ間があった夕暮れにキャッチボール。早川は受けるたびに「ナイスボール!」。

 星野は87年のドラフトでPL学園の立浪和義を1位で引き当てると、88年正遊撃手に抜擢。立浪は活躍した無理から89年肩を痛めた。治らない…。招かれて水野の自宅で食事をしていたときに、話を聞いた水野が星野に「漢方薬はどうかしら」。先生を紹介してくれた。話はとおっていた。柴崎が薬を貰いに行くと、すぐ貰えた。が、柴崎は星野に直接届けなかった。早川に渡した。それこそ“ナイスボール”であった。 =敬称略=
 (スポーツジャーナリスト)