「長打必中、広陵高校!」と唱えた伝説の男・山本忠男

2019年08月10日 16時30分

【越智正典 ネット裏】王貞治の“師匠”荒川博(故)は“弟子”の榎本喜八、黒江透修らに師匠の誕生日の8月6日にお祝いの会をやりましょうと持ちかけられても、いつもは江戸っ子らしく賑やかなのが好きなのに決して承知しなかった。8月6日は昭和20年広島に原爆が投下された日だからである。

 このとき、荒川は早実の生徒でまだ野球をやっていない。戦時下、それどころではなかった。

 生家は昔から浅草の大きな果実店。昭和20年3月10日、米軍機の東京下町大空襲で火の海に呑み込まれた。

 王貞治は4歳。お稲荷さんの森に逃げるおかあさんの背中でねむっていた。王家の長女幸江さんが学童年令が終わり、女子挺身隊に入らなければいけなくなって、3月9日の夜遅く、疎開していた茨城県笠間から吾嬬町の家に帰って来て、荷物をおろし、ホッとしたときに3月10日になり、空襲が始まり、王家も地を這ってくる火流にあっという間に焼失した。

 いま、広陵高校主将、昭和28年に明治大に入学したセンター、山本忠男を思い浮かべている…。彼はのちに、そのやさしさと品格から、推されて広陵高校同窓会会長、広陵野球クラブ会長を務めるのだが、小学校5年のときに被爆。ユニホームを着ると目立たないが、首の下から胸にかけてケロイド。明大和泉グラウンドで練習中に突然倒れる。が、すぐに起き上がり「長打必中、広陵高校!」と唱えてバットを構えた。私は巨人軍結団時の名二塁手、トップバッター、広陵の先輩、昭和10年の巨人第一回渡米遠征で、ハネ発ちの転戦105試合で105盗塁の田部武雄らの広陵の伝統を目の前で見る想いだった。凄い。

 一学年下の明大中野高出身の俊敏二塁手吉田秀男(前駿台倶楽部財務委員長、現顧問)は、この姿に涙した。

「山本先輩は、いつもは人なつかしそうに、私のことを“オーイ、中野高校!”と呼んでくれました」。吉田は腰を痛めると“御大”島岡に見込まれてマネジャー。卒業の年は主務を務めるのだが、それはもう少し先のことである。

「山本忠男先輩に、すまんがわしの部屋へ行って薬を取って来てくれんか、とよく言われました。先輩は原爆病の薬を飲みながら練習と戦っていたんです。ですが悲愴さが全くないんです。明るいんです。明るいからわたしは泣きながら第二合宿の先輩の部屋、寮長室に走って行きました」

 触れ合う二人。「私は広陵のファンになりました。先輩は卒業後、広島に帰り南区翠町の鉄工所を継ぎ一生懸命働いて社長になりました。社会人野球のときに広島遠征があって会いに行くと、昔のお礼だ…と、フグをご馳走になりました。ことしの春の六大学で広陵出身の4年生喜多真吾が苦戦の法政戦で長打必中、明治優勝を拓いてくれたときはうれしくて、うれしくて…。毎年、広陵から明治に選手が来て貰いたいです…」 =敬称略=