元中日・上原晃さん 引退から十数年たち蘇った情熱「野球を通して故郷沖縄に恩返しを」

2019年05月11日 11時00分

整体師に転身した上原さん

【異業種で輝く元プロ野球選手】「ヒジや肩を含め体は元気だったので、引退直後は野球への未練が断ち切れなかった。数年間は野球中継をまったく見なかったし、野球の話になるとイライラ感というか複雑な気持ちになったものですよ」

 今からおよそ20年前をこう振り返るのは、1980年代後半から中日で活躍した上原晃さん(49)。現在、名古屋市・守山自衛隊駅前にある「守山カトウ整体」で整体師として多くの患者の治療にあたっている。

 沖縄水産高から87年ドラフト3位で中日入団。「沖縄の星」として甲子園を沸かせた右腕のプロ入りは球界の注目を集めた。その期待に応えるように1年目からチーム救援陣の一角として24試合に登板。88年のリーグ優勝に大きく貢献した。

 そんな上原さんに異変が襲ったのはプロ4年目に差し掛かったころだった。

「もともと僕は指に血マメができやすいタイプだったのですが、このころからマメが固まらなくなってきたのです。それまでは血マメができると血を抜いて固められたのですが、それができなくなった。当初は感覚がおかしい中でも投げていましたが、そのうちに『これはおかしい』と。病院で検査をしたら指の血行障害が判明したのです」

 繊細な感覚を取り戻そうと2度の手術を試みたが症状は回復せず、96年に中日を戦力外に。その後、広島、ヤクルトと渡り歩いたものの、一軍登板を果たせないまま98年に引退を余儀なくされた。

 29歳で失意のどん底に落とされたうえ、当時は2人目の息子が生まれたばかり。家族を養うために何をすべきか。選んだ道が整体師だった。

「現役のころから今の整体グループの会長さんに体を診てもらっていたのですが、当時から冗談交じりに『引退したら来い』と言われていた。治療にも興味があったので、思い切って飛び込みました」

 治療「される側」から「する側」に立つと、整体の奥深さを再認識させられた。一人ひとりの体は似て非なるもの。症状も人により異なるため、野球のような明確な結果や答えがない。

「僕の治療は主に骨の並びを正しくすることですが、原因を追究したうえで治療を行う必要がある。そこが難しい。いまだに勉強ばかりです」

 それでも日々の努力で腕を磨くと2008年に現院をオープン。現在は当地で週2日、愛知県豊田市の本部でも週3日治療にあたる。

「忙しいですけれど、やはり患者さんの症状がよくなると自分もうれしい。そこにやりがいを感じます」

 携わる人たちが笑顔を取り戻すと、自らの野球に対する気持ちにも変化が生じた。それまで拒絶していた白球への思いが徐々に再燃。数年前からは知人の依頼をきっかけに「名古屋東リトルシニア」のコーチとして中学生への指導を始めた。

「ケガで悔しい思いのまま野球を辞めた分、子供たちには適切な指導をしてあげたい。特に投手に関しては自分のようにケガをしてほしくないですから」

 今では週末に加え、平日水曜にも練習に参加。時間が許す限り子供たちに野球の厳しさ、楽しさを伝える。

 将来的にはアマチュア指導の資格を取り「高校生にも教えたい。かなうかどうかわかりませんが、生まれ育った沖縄にも野球を通じて何らかの恩返しをしたい」と言う上原さん。野球への情熱を取り戻した沖縄の星はこれからも輝く。

 ☆うえはら・あきら 1969年沖縄県生まれ。県立沖縄水産高から87年ドラフト3位で中日入団。プロ1年目から活躍も96年に戦力外。97年広島、98年ヤクルトに在籍後、現役引退。99年からカトウ整体グループに入り整体師として活躍。現在は名古屋東リトルシニアのコーチも務める。プロ通算成績は138試合19勝21敗1セーブ、防御率4・85。身長178センチ、右投げ右打ち。家族は夫人と2男。