〝ミスタープロレス〟天龍源一郎(76)が「天龍源一郎プロレスデビュー50周年記念期間」(11月1日から来年6月30日)を前に単独インタビューに応じ、激動の半生を振り返った。病との闘いを経た天龍が明かした、故アントニオ猪木さんからの影響とは――。【前後編の前編】

米でのデビュー戦から帰国し、ファンに挨拶する天龍源一郎(1976年12月)
米でのデビュー戦から帰国し、ファンに挨拶する天龍源一郎(1976年12月)

 ――1976年11月13日のテッド・デビアス戦でデビューしてから50年を迎える。今の率直な心境は

 天龍 別に感慨深いとかは…。もう辞めて10年以上たつからね。その時の気持ちのまま、まったりと流れているよ。辞めた時点で「ああ、もうさっぱりした」っていう気持ちで、リフレッシュしてしまった。だから「プロレスをちゃんとやっていた」っていうことを自分の中で刻んでおかなきゃいけないっていう気持ちと、行ったり来たりだね。

 ――引退してからの10年で心境の変化は

 天龍 俺も今は車いすの状態になったけど、人前に出ることを恥ずかしいことじゃないんだなって思わせてくれたのは、猪木さんだよ。猪木さんは車いすの状態になっても、人前に出てたりしていた。昔と変わった姿を人前にさらしたくないっていう思いが強かったんだけど、猪木さんの一連の堂々とした姿を見て、そうじゃないと思えた。それと同時にBSとかで(自身の)昔の試合が流れてるのを見て「お前は一生懸命やったんだから大丈夫だよ」って背中を押されてるよ。

 ――猪木さんには1994年1月東京ドーム大会でピンフォール勝ちを収めた

 天龍 よくあの猪木さんが全日本という畑の違う天龍とやってくださったのは感謝してます。「馬場と猪木に勝った唯一の男」という代名詞は一番くすぐったいよね(笑い)。

1989年のベストバウトにも選ばれたジャンボ鶴田さん(下)との「鶴龍対決」
1989年のベストバウトにも選ばれたジャンボ鶴田さん(下)との「鶴龍対決」

 ――全日本、SWS、WARとさまざまな団体を経て、自分が一番頑張っていたと思うのはいつの時代か

 天龍 全日本の後半からSWSに移った時だったね。特に全日本プロレスが廃れてきて、後楽園ホールもお客が入らなくなってきた時に阿修羅・原と2人で「俺たちが所属しているのにみっともない」という思いで始めたのが天龍同盟だった。

 ――故ジャンボ鶴田さんとの「鶴龍対決」は名勝負の連続だった

 天龍 このころは本当に無茶だったというような試合が多かった。相手がジャンボ鶴田でちょうどよかったよ。だから俺は車いすになっちゃったのか。でも、ジャンボはあの世に行ったから、俺の勝ちかな(笑い)。車いすでとろとろ歩いてると「邪魔なんだよ!」って声をかけてくるジジイがいる。「この野郎!」って杖で殴りたくなるね(笑い)。

 ――2023年には「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊柱管狭窄症」のため入院した。人生でプロレスラーという職業を選んだことを後悔したことは

 天龍 一回もないよ。天龍という名前を世間に通してくれたのはプロレスだと思ってるから、感謝していますよ。俺が昔の試合を見て胸を張っているように、ファンも胸を張ってくれているって勝手に思ってます。

記者のインタビューに答える天龍源一郎(右)
記者のインタビューに答える天龍源一郎(右)

 ☆てんりゅう・げんいちろう 1950年2月2日生まれ、福井・勝山市出身。大相撲では西前頭筆頭まで進み、1976年10月に全日本プロレスに入団した。その後はSWS、WARなどでも活躍し、「ミスタープロレス」の異名をとった。ジャイアント馬場、アントニオ猪木両名からピンフォール勝ちを奪った唯一の日本人レスラー。2015年11月両国国技館で、オカダ・カズチカとのラストマッチを行い、引退した。