スターの訃報は、記録だけでなく、置き去りになった夢まで呼び起こす。元ヤクルトのボブ・ホーナーさんが26日に亡くなった。68歳だった。
1978年にドラフト全体1位でアトランタ・ブレーブス入りし、マイナーを経ずにメジャーへ直行。大卒新人ながらナ・リーグ新人王に輝いた。87年にはヤクルトで打率3割2分7厘、31本塁打、73打点。デビューから4試合で11打数7安打、6本塁打の衝撃で「ホーナー旋風」を巻き起こした。
訃報に接して胸をよぎるのは、もう一つの未完の物語だ。ヤクルトはホーナーさんの後、メジャー通算5714奪三振、7度のノーヒットノーランを誇るノーラン・ライアン氏の獲得を水面下で画策していた。
証言者は「ルイジ」の愛称で知られた中島国章さん。1973年からヤクルトで渉外を担い、ホーナーさん、ロベルト・ペタジーニ氏、アレックス・ラミレス氏らの獲得に携わり、2005年からは巨人でも国際スカウトを務めた。
筆者がヤクルト担当だった1999年、ルイジさんはこう前置きした。「この話なあ、いつか書けよ。俺が死んでからにしよか。いつかそんなタイミングが来るやろ」
明かしたのは、ライアン氏獲得の舞台裏だった。「ファンにもっと喜んでもらうなら、ホーナーより大物をいかなアカンやんか。当時はバブルやし、円高やろ。ライアンも日本に前向きやった。でも金額で折り合わんかった。相手の希望は3億円。こっちの予算は2億4000万円。観客動員やグッズ、ユニホームの売り上げを考えたら、差額なんてすぐ埋まったんやけどなあ…」
ライアン氏は88年オフにFAとなり、ヤクルトだけでなくオリックスも獲得に動いていたという。もし日本球界に降り立っていれば、ホーナー旋風を上回る大騒動になっていたに違いない。剛速球の伝説が神宮のマウンドに立つ――。そんな夢が確かに息づいていた。
中島さんは23年5月29日、慢性心不全のため70歳で亡くなった。そして今度はホーナーさんが旅立った。ホーナーさんの一発、ライアン氏の夢、ルイジさんの関西弁。球界の熱が、静かに胸を打つ。合掌――。













