【プロレス蔵出し写真館】オカダ・カズチカが4月10日の「AEW DYNAMITE」で圧巻の大暴れ。米AEWでも存在感を放っているようだ。

 オカダといえば〝カネの雨を降らせる〟がトレードマークとなっていた。自分の肖像画入りの「レインメーカー・ドル」が会場に降り注いだ。

 さて、リアルに現ナマを賭けて戦い、リング上から札束をバラまいたのはアントニオ猪木だった。

 今から44年前の1979年(昭和54年)4月26日、西新宿の京王プラザホテルで新日本プロレス「第2回MS・Gシリーズ」の前夜祭が開催された。

 宴もたけなわ、シリーズ特別参加のジャック・ブリスコがマスコミを集めると、こう宣言した。

「ここに1万ドル(当時=約239万円)の現金を用意してきた。猪木にまた逃げられると、せっかくフロリダからやって来た意味がなくなる。猪木が万が一私に勝ったら、この1万ドルを進呈する」

 猪木は「冗談じゃない。今まで誰の挑戦からも逃げたことはない。5月10日をちゃんと取ってある」と応じた。5月10日、福岡スポーツセンターで行われる猪木のNWFヘビー級王座22度目の防衛戦は、賞金マッチとなったのだ。

 試合は猪木がダブルアームスープレックス、リバーススープレックスで見せ場をつくり、得意技の足4の字固めにきたブリスコの首に足をかけ、クルッと丸め込みフォール勝ちを収めた。

 猪木は千円札で用意された賞金1万ドルを新間寿営業本部長から手渡されると帯封を破り、なんとお金を客席に向かってバラまいた(写真)。

 新間は少し笑みを浮かべて〝まさか〟という表情。藤原喜明を始め、選手たちはぼうぜんとお金の行方を眺めていた。

 プロレスライターの小佐野景浩さんは「高校生ながら福岡まで見に行きました。(賞金マッチ等)あの当時の新日本は余計な話題を付け足してた。翌日の地元紙は『非常識なことをした』って批判的だった。お金? 拾えませんでした」と振り返る。

1万ドルずつを出し合い、馬場とモンスーンを中心に写真に納まる選手たち(1972年3月30日、代官山の日プロ道場)
1万ドルずつを出し合い、馬場とモンスーンを中心に写真に納まる選手たち(1972年3月30日、代官山の日プロ道場)

 賞金マッチと聞き、72年(昭和47年)の日本プロレス「第14回ワールド・リーグ戦」を思い浮かべるオールドファンもいるだろう。

 3月29日に来日した参加外国人レスラーのエース格、ゴリラ・モンスーンは日本側に対し「オレたちも出すから、日本勢も1万ドルずつ出し合って、新しいトロフィーをつくり、それを取り合うのはどうだ」と〝1万ドル争奪戦〟を提案した。

 翌30日、東京・代官山の日プロジムで公開練習が終了すると、モンスーンはロッカーからトラベラーズチェック100枚(1万ドル、当時=約300万円)の束を持ち出してきて吠えた。

「沖(識名レフェリー)、昨夜の1万ドルの件に関して日本側からはなんの返事もない。日本人レスラーは逃げるのか。この1万ドルは道に落ちていたものではない。オレたちのメンバーが出し合ったものだ」とジャイアント馬場を挑発した。

 怒った馬場は「10分待ってくれ」。そう言って事務所へ向かい、100万円の束を3つつかんで戻って来ると、モンスーンの前に叩きつけた。

 その後、優勝大トロフィーが持ちこまれ、両軍の1万ドルずつ計2万ドルを手に写真に納まり、〝賞金争奪リーグ戦〟が決定したのだ。

 このトラベラーズチェック(TC)というのが時代を感じさせる。海外渡航に際して発行される外国旅行者向けの小切手で、現金とTCを交ぜて海外に持ち込む人が多かった。現在は新たな発行はされないようだ。

 優勝戦は5月12日、東京体育館で行われ、馬場がモンスーンを破り、6度目の優勝を果たした。賞金がどうなったのか、残念ながら東スポでは報じていない。

 ところで、賞金マッチは現在でも開催できるのだろうか…。ネットで見る限り「得喪を争うこと」(聞きなれない言葉だが、勝者が財物等を得て、その半面、敗者がそれを失うこと)で「賭博罪」に当たりそう。勝者の総どりはアウトなようだ。

 警視庁は「弁護士の先生に判断を仰いでください」とのことだが、果たして…(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る