【森脇浩司 出逢いに感謝(51)】 1996年に17年間の現役生活を引退し、97年から二軍の野手育成コーチになった。一、二軍とも運命共同体として戦力を補強しながらお互いがやっている。王貞治監督率いる一軍は97年に4位に浮上し、98年に21年ぶりのAクラスに食い込んだ。そして就任5年目の99年についに優勝し、星野ドラゴンズを下して日本一になった。その年の4月、チームの礎を築いた前監督で社長だった根本陸夫さんが急逝するという悲しい出来事もありました。
二軍コーチとして王さんの胴上げを見届けた僕は、秋のキャンプに入った時に王さんに呼ばれ「俺が目指すのは勝つチームじゃない。勝ち続けられるチームなんだ。一緒にやってくれ。勝てなかったチームが勝った時に油断が生まれやすい。やってくれ」と言われたんです。96年の生卵事件の後、ミーティングでの王さんの言葉を思い出して僕はこう聞いた。「あんなこともありましたね。でも僕としてはその後の横断幕がきつかったですよ。勝てなかったチームが日本一になったことで少しの達成感はないんですか?」。すると王さんは「ない」。そう思うことで自分の中に油断がないようにしたのかもしれません。
王さんは続けて「ホークスファンが一番優勝から長く離されて苦労してるんだ。卵や横断幕は俺の中でいろいろ思うところはあるけど、人間は人を恨んだりねたんだりして湧き出る力より“あの人のために”と頑張る力の方が大きいんだ。俺があの時のことをざまあみろ、と思っていたら優勝して達成感があったかもしれないが、ホークスファンにはまだまだ返せていない。だから連覇が必要だ」と言われたんですね。
改めてすごい人だな、と思った。868本塁打は世界記録で言うまでもなくすごいし、人間としても自分が描いていた域を超えていると思った。きれいごとじゃなくてね。ずっと苦しんできたホークスファンに1回だけの優勝じゃまだまだなんだということです。
来年から一軍内野守備走塁コーチとしていく。まだキャリアも年齢も若いのに日本一チームの重要なポジションを受け持つ…。これは尋常なことではなかった。そこから僕のベースコーチャーとしての歴が始まるわけです。王さんとの距離も縮まっていきました。
2000年はエース工藤公康がFAで退団という中で西武、日本ハムと競った展開になった。リリーフ陣が踏ん張り、打線は松中信彦と小久保裕紀が30発、100打点の頑張りでリーグ連覇を達成。V2を見届けるようにリリーフとして前年Vに貢献した投手の藤井将雄が亡くなるという悲しい出来事もありました。いいやつでね。僕にとっては津田恒実と重なる部分がありましたね。
コーチとして王さんと接するとグレートな部分だけでなく、いろんな人間っぽい面も見えてきました。












