「フォークボールの神様」の異名があった、中日の元投手で監督も務めた杉下茂さんが、12日に東京都内の病院で間質性肺炎のため亡くなっていたことが分かった。97歳。中日球団が16日に発表した。現役通算215勝、引退後も指導者として後進の育成に尽力し、1985年に野球殿堂入り。そんなレジェンドの巨人投手コーチ時代の教え子で、フォーム改造により大きく飛躍した角盈男氏が、故人を悼んだ。

 僕の中で杉下さんは「不死身」だと思っていた。最後にお会いしたのは今から5~6年前。江夏豊さんのゴルフコンペでご一緒し、当時でも90歳すぎというのにフルラウンドを元気いっぱいで回っていた姿に驚かされた。「〝お父さん〟みたいな年の取り方をしたいです」と私が言うと、杉下さんは「お~そうかあ~」と笑みを浮かべ、これまでとずっと変わらない口調で返してくれたことを思い出す。だから100歳どころか110歳ぐらいまで長生きされ、僕のほうが逆に早く逝くんじゃないかと思うぐらいにいつも「凛(りん)」とされていた。

定岡正二を指導する杉下茂コーチ(右)、左は長嶋茂雄監督=1977年、宮崎
定岡正二を指導する杉下茂コーチ(右)、左は長嶋茂雄監督=1977年、宮崎

 恩師の1人だった。巨人時代の1979年シーズン終了後に「地獄の伊東キャンプ」へ参加し、投手コーチだった杉下さんが目を光らせる中、マンツーマンでフォーム改造に励んだ。そこで出された結論が、このころは球界でタブーとされていたサイドスロー。杉下さんは当時の長嶋茂雄監督のところまで直談判に行くと「角を横手投げにさせたいので、何とか了承してもらえませんか」と頼み込み、最終的に「よし分かった。俺が責任を取る」とゴーサインをもらった。杉下さんとの出会いがなければ、その後の僕は間違いなく存在しなかった。

 コーチ時代からピッチングに関しても難しいことは一切言わず怒られた記憶はほとんどない。とても穏やかな性格で非常に接しやすく、選手にとっては「癒やし系」の優しい方だった。これは当時の余談だが、食堂などで出された好物のアンパンがなくなってしまうと「俺のアンパン、誰か食ったか?」とたびたび口にし、僕ら選手を笑わせていたことも今となっては懐かしい思い出だ。現役を退いて以降は親しみを込め「お父さん」と呼んでいたように、杉下さんは年齢をいくつ重ねようとも「お父さん以上、お爺ちゃん以下」というイメージがぴったりの方だった。

 97歳は確かに大往生ですが、やっぱり訃報を聞いて残念でなりません。杉下さん、どうか安らかに――。合掌。