【プロレス蔵出し写真館】今から42年前の1980年(昭和55年)11月7日、新日本プロレスは岐阜県庁横グラウンドで「選手とファンの集い」を開催し、新日プロチームと新日プロ後援会による親善ソフトボール大会が行われた。そして、2人の大物ゲストが出場した。
この年のセ・リーグMVPで本塁打、打点の二冠王・広島の〝ミスター赤ヘル〟山本浩二。もう一人は中日のエースピッチャーだった星野仙一。
開始前の写真撮影では、ピッチャーアントニオ猪木、キャッチャー坂口征二、バッターボックスに山本が立ち、星野が審判を務めるという豪華な顔合わせが実現した(写真)。
ストロング小林、藤波辰巳(現・辰爾)ら全選手が出場した新日プロチームは、速球に対応できずきりきり舞い。山本は背広を新日プロの若手に預け、代打で登場。いとも簡単にホームランを放ち、ファンの「もう1本」というムチャなリクエストに応えて打席に残り、またもホームラン。1打席2ホーマーという〝珍記録〟を披露した。
一方の星野は後援会チームに入り、猪木との対決が実現した。2人は試合終了まで残り、移動バスで帰京する選手を見送った。
さて、猪木に星野を紹介したのは新日プロの中京地区をプロモートしていた共同企画の富野徹三氏(現・会長)。富野氏は「星野はプロレスが好きだったからね。猪木に紹介しましたよ。甲子園球場を抜け出して、大阪府立(体育会館)にアンドレ(・ザ・ジャイアント)や(スタン・)ハンセンを見に行ったと言ってたな」と明かした。
このエピソードは、元中日の星野監督付広報だった早川実も後に語っている。投手に〝上がり〟という早退特権があった当時、星野は堂上照、三沢淳の3人で試合前に球場を後にしたという。そして、プロレスを生中継していた「ダイヤモンドアワー」に、リングサイドで観戦する3人の姿が映って仰天したという。
早川の言う「三菱ダイヤモンドアワー」は日本テレビ系で72年夏まで日本プロレスを中継していた。3人の入団時期、早川の中日入りが76年。富野氏が星野から聞いた話を照らし合わせると、テレビ朝日系の「ワールドプロレスリング」ではないかと思われる。いずれにしても、星野がプロレス好きだったのは間違いない。
ちなみに、猪木に山本浩二を紹介したのは東スポの鈴木晧三カメラマン。広島のお好み村で会わせたと生前語っていた。
その鈴木カメラマンが「外が凄いことになってるぞ」と、リングサイドで第1試合を撮影し終わった私の元へ飛んできたのは83年(昭和58年)6月1日、「IWGPプロレスグランプリ」決勝リーグ戦(アンドレとキラー・カーンが激突)が行われた名古屋の愛知県体育館。急いで外に出てみると、すでに試合が始まっているにもかかわらず入場するために並ぶ大勢の人、人、人。その数およそ3000人。
体育館関係者は「とにかく驚きました。過去、何度も相撲をやっても何のプロ興行をやってもこんなに凄まじい人は見たことありません。体育館始まって以来ですよ」と驚愕していた。全景写真を撮ろうと、2階へ上がろうとしたが、通路にまでお客が座っていて、なかなか上までたどり着くことができないほどぎゅうぎゅう詰め。観衆は15000人超満員と発表されたが、多分それ以上だろう。
猪木が提唱したIWGP構想はファンにウケ、決勝リーグが行われた会場のほとんどが満員マークが付いたが、この日の愛知県体育館は桁外れだった。
共同企画の集客力もあり、名古屋ではビッグマッチ、好カードが組まれていた。93年3月21日にはレインボーホールで共同企画20周年記念大会が行われ、富野氏は坂口社長(当時)から感謝状を贈られた。
ナゴヤドームのこけら落とし興行(97年8月10日)ではグレート・ムタVS小川直也、レフェリー猪木という興味深いカードも実現。かつて、名古屋は〝ドル箱〟だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














