1日に死去したプロレス界のスーパースター・アントニオ猪木さん(享年79)は、格闘技界の発展に与えた影響も大きかった。特に、2002年8月28日に国立競技場で行われた「Dynamite!」に象徴される2000年代の格闘技ブームは、猪木さんの存在なくしてはありえない。そのブームをともに築き上げたのが、K―1創始者の石井和義・正道会館館長(69)だ。当時、公私にわたりタッグを組んだ石井館長が猪木さんをしのび「闘魂秘話」を明かす――。

 訃報を知った1日は自身が設立した団体の空手大会が行われていた。突然のことに驚かされた一方で、この1か月ほど前に猪木さんから連絡が来ており、ある程度の〝覚悟〟はできていたという。「お別れを言うようなお電話でした。電話で話した感じと、ずっと状況は聞いていたので『あまり長くないだろうな』と。会いに行こうと思っていたんですが…」と肩を落とした。

「K―1」創設者としてプロレス界のスターとは、違う道を歩んでいた。だが、2000年8月に猪木さんが総合格闘技イベント「PRIDE」のエグゼクティブ・プロデューサーに就任したことで、一気に距離が近づく。石井館長は、格闘技発展における猪木さんの功績を「猪木さんが入ったことで、新日本プロレスやUWFの幻想を持っている人たちがPRIDEと交差した。だから、あそこまで伸びた」と説明した。

 その流れから01年大みそかの「INOKI BOM―BA―YE」が行われる。当時を「僕らにとっても猪木さんは特別なんです。猪木さんから言われると何でも『じゃあ、やろうか』ってなるでしょ。猪木さんが関わらなかったら、僕もPRIDEのリングに上がることは、なかった」と振り返った。

 猪木さんは、なぜそこまで格闘技に熱心だったのだろうか。石井館長は「ずっと続けることって格闘技でも大変なのに、プロレスは毎日(試合がある)じゃないですか。それはね、飽きると思いますよ。そこに新しい〝おもちゃ〟が来たわけですから。本人は楽しくてしょうがない様子でした」と述懐する。

 このころからプライベートも、ともにするようになった中、石井館長はとんでもない行動に出たことがあった。「コブラツイストとか(両脚で相手を挟む)胴締めとかヘッドロックとか、プロレスの技って、効かないだろと思ってたんです」との気持ちから、宴席で猪木さんに「技をかけてください」とお願いしたのだ。

「そしたら胴締めで胴体がちぎれそうになり、ヘッドロックで頭が潰れそうになって、コブラツイストでは体がバラバラになりそうに…。最後に後ろに回られて上から肩をあごで押さえつけられたら、もうタップしてしまうんですよ。『猪木さんって、メチャクチャ強いんだな…』っていうのを実感しました」

 こうして2人がたどり着いたのが、格闘技史上最大のイベントと言われる「Dynamite!」だ。国立競技場に9万人超の大観衆を集め、猪木さんが第5試合終了後に上空1万メートルからパラシュートで降下して恒例の「ダーッ!」を決めた。総合プロデューサーを務めた石井館長は、そんなダイブの秘話を明かした。

「猪木さんって、高所恐怖症だったんですよ。そのため、周りの人が『大丈夫ですよ。1000メートルくらいからポンと落ちるだけだから』って説得して(笑い)。実際は1万メートルだし、しかも真っ暗。いくらプロと一緒に降りても怖いでしょ。だから普段はリングに上がったら、まず『元気ですかー!』ってやる猪木さんだけど、あの時は最初に僕の方を向いて『バカヤロー!』って。『やばいな』と思ったけど、その後、握手してもらえてホッとしましたよ」

 さらに「飛んでもらうために、5000万円持っていったんです」と続ける。当時の関係者から「飛ぶのに5000万円くらいいる」と言われ、その額が入った紙袋を渡したという。ちなみに「猪木さんに全ていってるかはわかりません。このことを、後に猪木さんに話したら『え?』って言ってましたから」という。

 最後に、石井館長は「僕の中では永遠の憧れであり、目標であり、戦友となった人です。真のお友達になれて良かった。猪木さんみたいな人は今後、出てこないでしょう」。猪木さんが愛した格闘技は、これからも形は変われどファンを熱狂させるだろう。