【獣神サンダー・ライガー平成ジュニア一代記(1)】来年1月4、5日の東京ドーム2連戦で引退する新日本プロレスの獣神サンダー・ライガーが、自らの半生を語る短期集中連載「平成ジュニア一代記」がスタート! 惜しまれつつリングを去るジュニアヘビー級の第一人者は、マット界に数々の功績を残した。第1回は、マスクマン誕生前の「山田恵一」時代を振り返る。1984年3月3日の小杉俊二戦(後楽園ホール)でデビューした素顔のライガーに、獣神伝説の原点があった。

 自分のことを語る上で、山田君の話は外せないよね。山田君がプロレスラーに憧れたのは12歳の時。それまで小学校のクラブは園芸部で、動物園の飼育係とか農業関係で将来、生活できればなって、漠然とした夢があったんです。

 でもたまたま本屋に入った時、ちょうど藤波(辰巳=現・辰爾)さんが雑誌の表紙になっていて、格好良かったんですよ…体ビシビシで。そこからプロレスを見るようになって、俺はこれをやるしかないなって。急に農耕民族から狩猟民族に変わったみたいな感じですよ。雑誌を読むと、プロレスラーはヒンズースクワットを3000回やると書いてある。見よう見まねでやるようになって、中学を卒業する前には3000回できるようになってました。中学校では水泳部に入ったこともあって、卒業アルバムは体ムキムキになってたかな。

 身長が足りなかったので高校3年間で体力をつけようとレスリングをやったんだけど、卒業時でも全然足りなくて。入門テストさえ受けられなくて諦めかけたんです。でも国際プロレスのマッハ隼人さんという方がメキシコから逆輸入という記事が載っていて。(173センチのマッハさんのように)小さい人間でもメキシコに行けばプロレスラーになれるんだと。当時はレスリングで大学から推薦もきていて「五輪目指せ」って言われていたけど、母が「この子の夢をかなえてあげたい」と先生を説得してくれた。

 そのメキシコで山本小鉄さん(故人)との出会いが待っていました。現地でお世話になっていた方のマージャン仲間にグラン浜田さんがいて「新日本プロレスがメキシコ遠征に来るから紹介してあげるよ」と。不思議なくらいトントン拍子な縁で、運が良かったとしか言いようがないですね。最初は入門を断られたけど、最終的に山本さんが「日本に帰って、道場を訪ねなさい。話は済んでるから。ところで飯食ってるのか? これで肉でも食え」と300ドルくらいポンとくれて。当時だとえらい金額ですよ。もう毎日肉を食いました。

 1984年のデビューからしばらくして、(アントニオ)猪木さんの付け人になりました。試合を見て「お前だったらこの状況をどうする」「どう雰囲気を変えるか」とか、そういう話をよくしてもらいました。「分かりません」って言うと、詳しく教えてくれる時もあれば、笑ってごまかされることも。学んだことはすごく大きいし、一番いい時期に付け人をさせてもらったと思います。

「プロレスってなんだ」「新日本プロレスってなんだ」とよく言われる方だった。その教えを今も守るようにしています。猪木さんは55歳で引退したんですよね。山田君が55歳の時にライガーが引退するのも不思議です。同じドームで終わるのもドラマチックだよね。

 山田君やライガーが出した技が今のプロレス界でも通用しているのはうれしい。初めてシューティングスタープレスを出したのは、凱旋帰国した87年にトーナメントで負けて、次の日のタッグマッチだったかな。あの技は漫画「北斗の拳」の登場人物のレイが使う南斗水鳥拳という、空間を利用した拳法をプロレス技にできないかと思ったのがきっかけなんです。

 今振り返ると、負けん気が強かったよね。小鉄さん、猪木さんに「身長が低いんだから横にでかくしろ。お前の体を見て、お客様のチケット料金5000円のうち3000円は取れる体をつくれ」って言われていたからだし、藤原(喜明)さんに「素人になめられちゃダメだから技術を磨け」と言われていたから。「来るなら来い」「なめんなよ」って気持ちでいた。そんな山田君は、89年に「リバプールの風」になるんだけどね…。(続く)

☆じゅうしんサンダー・ライガー=1989年4月24日、漫画家の永井豪宅で誕生。同日の新日本プロレス東京ドーム大会(対小林邦昭)で獣神ライガーとしてデビュー。同年5月25日にIWGPジュニア王座を戴冠し、90年1月に獣神サンダー・ライガーに改名した。「トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」や「スーパーJカップ」などで優勝を飾った他、ヘビー級戦線でも活躍。平成のマット界にジュニアの一時代を築いた。正体は「山田恵一」とされる。170センチ、95キロ。