全日本プロレスの「門番」が明かしたブッチャー「最凶」男のプロ魂は蓄財術でも「最強」だった

2020年05月15日 11時00分

ブッチャーにとって傷痕は勲章だった(84年12月23日撮影)

【和田京平 王道を彩った戦士たち】今月から全日本プロレスの名誉レフェリー・和田京平氏(65)の新連載「王道を彩った戦士たち」がスタート。1972年の旗揚げから全日本を見守り続ける「王道マットの門番」が、名選手の知られざるエピソードを明かす。今回は昨年2月19日の「ジャイアント馬場没20年追善興行」(両国国技館)で引退セレモニーを行った“呪術師”アブドーラ・ザ・ブッチャー(79)の素顔だ。

 真のプロフェッショナルですよね。あそこまでプロ意識を持った選手はちょっといない。お金を稼ぐためなら、憎まれようが流血しようが何でもやった。あの感覚は日本人にはないものだった。

 大前提として黒人選手という事実があるわけです。米国では幼少時から差別の対象になっていただろうけど、毅然としたプライドを持っていた。絶対に白人選手と同じ控室には入らない。全日本の外国人には差別意識なんてなかったけど、ブッチャー自らがきれいに一線を引いて徹していた。だから我々はリングづくりを終えると、馬場さん、日本人選手、外国人選手、そしてブッチャーたちの控室をセッティングした。部屋がない時は、黙って体育館の倉庫を控室にしていたね。

 リング上ではとにかくやりたい放題。国技館だろうが地方の会場だろうが、毎日毎日流血していた。俺は若い時期、怖くて怖くて逃げまくっていた(笑い)。だけどリングを下りると紳士。身なりもびしっとしていて、帽子に折り目がきちっとしたズボンとシャツで葉巻をくわえていた。

 タニマチがいる土地では豪華な食事に行くんだけど、そうじゃない時はホテルのレストランでライスだけを注文して砂糖をかけて食べていたね。砂糖はタダだから。とにかく「日本で稼いでお金を残す」というプロ意識がすごかった。140回以上も来日してるのに、ほとんど家族を帯同したことがない。普通は奥さんや子供を連れてくるんだけど「そんな金があったら米国に持って帰る」という意識が強かった。だからその後にレストラン(ジョージア州アトランタ)を何軒も経営できたんじゃないかな。

 一番記憶に残る試合は「チャンピオン・カーニバル」で初優勝した時(1976年5月)でしょう。黒人選手で優勝(76、79年)したのは彼だけ。しかも初優勝は馬場さんの4連覇を止めて外国人選手として初の快挙だった。決勝戦は馬場さんが反則負けしたんだけど、試合後に控室で1人になると「ミスター馬場には心から感謝している…」としんみりした表情でトロフィーを抱き寄せていた。どんなベルトよりも価値あるものだったと思います。

 馬場さんの信頼も厚くて、来日すると米国産の葉巻をプレゼントしていた。でも馬場さんはもっと高価なキューバ産のを吸っていてね。彼はシリーズ途中で自分の葉巻が切れると、俺に「スモーク、スモーク」とねだるんですよ。それもあのクリクリッとした瞳を丸くさせて。馬場さんに伝えると「仕方ねえなあ」と5~6本渡してくれたけどね。

 81年に新日本プロレスに引き抜かれた時は馬場さんが激怒して逆にスタン・ハンセンやタイガー・ジェット・シンを引き抜いたんだけど、居心地が悪かったのか、86年ぐらいから全日本側に「戻れないか」と打診してきたんですよ。最初は馬場さんも許さなかったけど、87年に復帰してからは忠実だった。最後まで全日本を貫いて引退セレモニーも馬場さんの興行だったから、幸せな晩年だったんじゃないかな。

 セレモニーの前に車椅子から「キョウヘイ」と呼んで抱き寄せてくれた。「ああ、これがお別れになるのかな」と考えたらこみ上げてくるものがありました。もう来年で80歳? 来日は難しいだろうけど、長生きしてほしいと心から願います。(随時掲載)

☆アブドーラ・ザ・ブッチャー=本名ローレンス・シュリーブ。1941年1月11日生まれ、カナダ・オンタリオ州ウィンザー出身。61年にデビューし、70年8月に日本プロレスに初来日。72年の全日本プロレス旗揚げから定期参戦し、“黒い呪術師”の異名を取る残虐ファイトで人気を博した。81年には新日本プロレスに移籍するも、87年に全日本に復帰。その後はインディ団体などにも参戦し、2011年にWWE殿堂入り。12年1月に引退表明し、19年2月19日に引退セレモニーを行った。必殺技は地獄突き、毒針エルボー。現役時は186センチ、150キロ。