【プロレス蔵出し写真館】肺がんのため死去した〝ミスタープロレス〟天龍源一郎の妻・嶋田まき代さんの通夜が先月27日、東京・大田区のロイヤルシティホール洗足池でしめやかに営まれた(告別式は28日)。喪主を務めた天龍は、「天龍源一郎を前向きに歩ませたのは嶋田まき代のエネルギーのバックアップがあったからだと思っています」と感謝の言葉を口にした。

 まき代さんは天龍がエースだった団体「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」をチーフとして支えた。

 そのWARが旗揚げ戦を行ったのは今から30年前の1992年(平成4年)7月14日、後楽園ホール(翌日15日は同所で第2戦)。メインイベントでザ・グレート・カブキ&北原辰巳(後の光騎)組と対戦する天龍が、タッグパートナーに抜擢したのは若手の折原昌夫だった。

 折原は全日本プロレス時代の最後の付け人で、天龍がSWSに参加すると追随した。SWSが解散する直前にメキシコ遠征に出ていて、いわば凱旋帰国第1戦でもあった。

 試合は天龍が孤軍奮闘する展開となった。折原が集中砲火を浴びダウンしたのだ。北原に強烈な顔面キックの連発を食らい、カブキのラリアート、DDTでいたぶられた。マットに這いつくばると、天龍に髪の毛をつかまれ引き起こされた。終盤、カブキがラリアート4連発からパワーボム。これは天龍がカットして事なきを得たが、最後はカブキのタイガードライバーでカウント3。期待されるがゆえに〝ボコられた〟と言ってもいい試合だった。

 試合を終えて控室に戻ってきた折原は畳の上に大の字。「マスコミがいるんだからちゃんとしろ!」。天龍の叱責に一度は起き上がりイスに座ったものの、すぐに畳に前のめりに突っ伏して二度と起き上がることはなかった(写真)。結局、折原は救急車で運び出された。
 
 一方、天龍は旗揚げを終えて、「何を見せたいか? オーソドックスなものでいいと思っている。いままでもファンに嘘をつかないでやってきたのが俺のプロレス。これからの1年間、だまされたと思って俺についてきてよ。絶対損はさせない」と力強く語った。

 その言葉通り、この年の10月に新日本プロレスと開戦。長州力、橋本真也、アントニオ猪木、藤波辰爾、グレート・ムタとはシングルで対戦。さらにインディ、U系との対決も実現させた。戦っていない大物は前田日明ぐらいだろうか…。

 ところで折原だが、WARで経験を重ねるうちに画期的な技を開発した。

 相手を背後から抱えてコーナー最上段に乗せ、自分もコーナー最上段に登ってジャーマンで投げる荒業。なだれ式ジャーマンだが、自分は両足のつま先をセカンドロープに引っかけ転落を防ぐというすぐれもの。今ではスパイダージャーマンの名称で知られる。

 いつだったか折原から、「天龍さんが使っちゃいけないって言うんですよ」と愚痴を聞かされたことがある。危険すぎるという判断だったのか、天龍には確認する機会がなかった。後に天龍は武藤敬司との一戦で使用したように、この技は認めていた。自ら成熟させて、使用に踏み切ったということだろう。

 折原とは06年7月27日、後楽園大会で行われたWAR最終興行「FINAL」のメインでタッグを組んで(天龍、折原、北原、ドン・フジイVS越中詩郎、齋藤彰俊、小原道由、青柳政司)、有終の美を飾った。

 天龍はWARをふり返り、「新日本で稼いでいた金は全部WARにつぎ込んでいたよ。嶋田家の財産は全部WARにつぎ込みました」と明かしていた。

 まさに、まき代さんあってこその天龍だった(敬称略)。