“格闘技の聖地”と呼ばれる後楽園ホールは16日に60周年の“還暦”を迎え、15日(女子プロドリームフェスティバル)と16日(新日本と全日本の合同興行)の「還暦祭」は大成功を収めた。
60年の歴史の中でも異彩を放つのが、新日本プロレス1987年1月14日に行われた藤波辰巳対木村健吾(いずれも当時)の史上初となる後楽園ワンマッチ興行だ。2人はジュニア時代に名勝負を展開してその後、ヘビー級に転向。当時IWGPタッグ王座を保持していたが、前年の10月に「このままではいつまでも藤波を超えられない」とシングル戦を要求。12月10日大阪城ホールで約4年ぶりの一騎打ちが実現したが、藤波が回転エビ固めで勝利。不完全燃焼の木村は再戦を訴え、ここから遺恨が炎上する。
87年1月2日後楽園での再戦は、木村がレガースに鉄パイプを忍ばせての稲妻レッグラリアートで3カウントを奪うも、凶器が発覚して無効試合に。翌3日後楽園ではエキサイトした藤波が暴走して反則負け。泥沼の遺恨に決着をつけるべく、急きょ1月14日後楽園でのワンマッチ興行が決まった。
本紙記事によると、チケットは当日券のみ。朝6時半から列ができ、正午には700メートルにも及んだ。午後2時には1900枚が完売。急きょ追加発売された300枚も即完売。1試合で興行収入は400万円を超えた。超満員2200人の熱気に押されるように試合は壮絶なものとなった。
「弾み(キャンバス下のスプリング)をなくした“鉄板リング”でゴングが鳴った、テーマ曲もない。前代未聞のワンマッチ興行。猪木がシン、ハンセンと、藤波が長州と戦っていたころのムード。藤波と木村はプロレスの原点を再現し、魅了した。関節の取り合い。緊迫感は普段の比ではない。藤波が張り手の応酬からラリアート、ボディースラム。マットはスプリングがなく硬い。普通の技でも破壊力が倍増されている。“鉄板リング”の乾いた音が壮絶マッチのムードを高めた。木村はこの日のために磨いてきたボクシングパンチ。ワンツーの連打で藤波をダウンさせる。さらに脳天杭打ち、稲妻レッグラリアートだ。藤波がポスト最上段に上ると稲妻弾で場外へ落とす。ブレーンバスターでリングに投げ入れ、バックドロップ。ここで木村は三たびレッグラリアート。しかしこれが落とし穴だった。藤波はガッチリ木村の足を捕らえ、サソリ固め、逆エビ固めからバックドロップ。そして逆片エビ固め。木村は必死にロープに逃れようとするがついに力尽き17分32秒、ギブアップ。ニューリーダー対決はこれで決着がついた。木村がケンカを仕掛け大遺恨試合となったが、紙一重の勝負を藤波が拾った。たった1試合だったが、大観衆はプロレスの原点の戦いに充足しきった」(抜粋)
興行時間は午後7時半から約30分。しかしお互いが全力を出し切って大観衆も納得した名勝負だった。木村は引退も示唆したが、周囲の説得により米国へマーシャルアーツ修行に旅立つ。3月に帰国後はパンタロン姿に転じて、蹴りを主体としたスタイルを強化させた。両者はその後に和解。同年11月の「ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」に出場。88年1月には3度目のIWGPタッグ王座戴冠を果たした。
結局は木村は藤波を超えられなかったが、その後に平成維震軍に参加するなど、藤波とは別の道を歩みながら新たな境地を開拓していく。短いながらも藤波と木村の戦いはファンを心の底から興奮させた“昭和最後の抗争”だった。
(敬称略)












