14人のデストロイヤーが勢ぞろい! 誰からも愛された〝白覆面の魔王〟

2022年01月02日 10時00分

勢ぞろいした14人のデストロイヤー(1993年7月、横浜、東スポWeb)
勢ぞろいした14人のデストロイヤー(1993年7月、横浜、東スポWeb)

【プロレス蔵出し写真館】2019年3月8日、日本で最も有名な外国人レスラー死去の報はテレビのニュースでも伝えられた(亡くなったのは現地時間7日)。足4の字固めを日本に持ち込んだ〝白覆面の魔王〟ザ・デストロイヤー。享年88歳だった。

 魔王の初来日は1963年(昭和38年)5月。今から58年も前になる。5月24日、東京体育館で力道山の挑戦を受けたWWA世界ヘビー級選手権のテレビ視聴率は64%(ビデオリサーチ調べ)を記録。力道山が亡くなる直前まで幾多の名勝負、死闘を展開した。

 力道山の死後も常にトップ外国人レスラーとして豊登、ジャイアント馬場と、時の日本プロレスのエースと対戦した。馬場が72年に全日本プロレスを設立すると、ほどなくして手薄だった日本陣営に助っ人として加わった。その後、日本テレビ「金曜10時!うわさのチャンネル!!」にレギュラーで出演し、和田アキ子、せんだみつおらとコミカルな絡みを演じて人気が加速した。

 力道山、馬場との試合がクローズアップされるデストロイヤーだが、アントニオ猪木とも隠れた(?)名勝負を残している。

 それは1971年(昭和46年)5月19日、大阪で行われた第12回ワールド・リーグ戦の優勝決定戦。

 日本側は馬場、猪木、そして外国側はデストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーが同点首位で公式戦を終え、抽選の結果、決勝トーナメントでデストロイヤーが猪木と対戦した。試合はデストロイヤーが足4の字を決め、そのまま場外に転落。両者リングアウトの引き分けに終わり、ブッチャーを破った馬場が優勝した。

 連覇を逃した猪木は、優勝した馬場が保持するインターナショナル王座への挑戦を表明するという、思わぬ余波も生み出した。

 さて、デストロイヤーの引退試合が行われたのは1993年(平成5年)7月29日、日本武道館だった。引退試合の前日、横浜文化体育館の控室を訪ねると、デストロイヤーと談笑するシリーズ参加選手や、引退式のセレモニーに出席するゲストの姿が見られた。

 デストロイヤーがいつも試合前にサインをして販売しているマスクがあったので、それをかぶり偽物への変身を提案すると、皆、大喜びで集合写真に納まった。

 写真は前列左からテリー・ゴディ、ジョニー・スミス、リチャード・スリンガー、ジョー・ディートン、マーク・ヤングブラッド、中列は右がスタン・ハンセン、隣がドン・マノキャン、後列と最後列は左からケンドール・ウィンダム、ビッグ・ブーバー、ジョニー・エース、スティーブ・ウィリアムス、本物のデストロイヤー、長男のカート・ベイヤー、ピート・ロバーツ。多くの選手から慕われているのが伝わる風景だった。

 そして、引退試合はジャイアント馬場、カートと組み渕正信、永源遥、井上雅央組との6人タッグマッチ。馬場が渕をコブラツイストで制している間にカートが永源に、そしてデストロイヤーが井上雅に足4の字固め。親子の足4の字共演で有終の美を飾った。

「うわさの――」で共演した徳光和夫アナのナレーションで魔王のレスラー人生が語られ、和田アキ子の歌が流れるなか、ウィルマ夫人、長女モナさん、カートの4人は抱き合い涙した。

「日本に来て最初は白い鬼、白いデブと言われたが、ずっと来るうちにファンの気持ちが温かくなった。応援に感謝している」デストロイヤーはそうファンにメッセージを送った。

 ところで、デストロイヤーと東スポの関係は、米西海岸で活躍していたころから良好な関係が続いていて、芳本栄特派員が定期的にニュースを送信。引退してからも、海外の面白ネタを電話で伝えてくれた。本社には夫人を伴い何度も訪れた。

 親しくしていた鈴木晧三元写真部長はデストロイヤーが亡くなった年の11月、後を追うように他界した。偲ぶ会に参列してくれたカートは、「鈴木さんは英語はしゃべれなかった。でもお父さんとは通じていた」と故人にあいさつした。

 時には、先人たちの功績を振り返るのも悪くない(敬称略)。

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