【この人の哲学】ジャニー社長のOKが出なかった少年隊デビュー曲

2019年12月29日 10時10分

【この人の哲学】ジャニーズで30年以上にわたって音楽プロデューサーとして活躍し、「夜空ノムコウ」など数多くのヒット曲を含む、2000曲以上を手掛けた鎌田俊哉氏が登場。自身も「子供ばんど」などで活動していた鎌田氏が裏方に回った理由、そしてジャニー喜多川氏や大物ミュージシャンと接する中で得た“哲学”を語ります。

 ――いつごろからジャニーズで仕事を始めたのですか

 鎌田氏:1984年、マッチ(近藤真彦)の「一番野郎」からです。次の「ケジメなさい」は作詞の売野雅勇さん、作曲の馬飼野康二さんと「刺さる言葉は? 刺さるメロディーは?」と無我夢中で作りました。その同じころに「少年隊をデビューさせるから担当しなさい」と言われたのです。彼らのデビュー1年半前です。巨匠、筒美京平先生と私とで少年隊のコンセプトを1年以上考え、筒美先生には驚くほど多くの曲を作っていただきました。さらにニューヨークに行って、かのビッグネーム、マイケル・ピータースに振り付けをつけてもらいました。

 ――マイケル・ジャクソンの振り付けをしていた!

 鎌田氏:そうです。「今夜はビート・イット」や「スリラー」のMVのダンスを作った人です。そうやってしっかりと時間もコストもかけ、あのデビュー曲「仮面舞踏会」(85年12月発売)が生まれたんです。

 ――ジャニーズはヒットを宿命づけられているから大変だったのでは

 鎌田氏:少年隊は国内でのヒットはもちろん、「世界デビュー」を目指していました。そのため「これでいいのかな?」と毎日思っていました。「仮面舞踏会」は「頭にサザンオールスターズの“ラララ~”みたいなのをつけてほしい、さらに大サビもつけ足してください!」と無理なお願いもしました。当時僕は25歳。僕みたいな小僧が大先生に注文つけて、これはあり得ないことですね。

 ――60年代から数々のヒット曲を生んできた大巨匠を相手に!

 鎌田氏:僕も自分でロックバンドやっていました。曲作りもやっていました。だから生意気なんですよ(笑い)。「あんた、生意気だ!」といつも怒られ、歌の譜割りも16ビートにしてほしいなどと伝え、さらに大サビの「いっそエクスタシー」の部分も足してもらったんです。

 ――そうやってあのヒット曲が生まれたんですか

 鎌田氏:ところが…そんな簡単ではなく、最後の最後にOKが出なかったのです。少年隊について、ジャニー社長は“世界”を前提にしていたから、ハードルがものすごく高いのです。社長が首を縦に振らないと、それまで「いいね!」と絶賛していたレコード会社の人たちも皆黙ってしまうのです。

 ――会社員として笑えません…

 鎌田氏:でも筒美先生と1年半かけて作ってきたのです。今さら先生に「さらにもう1曲!」なんて言えません。私は社長、さらにレコード会社の偉い人を相手に「60曲の中から選び抜いて作った曲です。デビューまでのひと月の間に、これに勝る曲を作るのは不可能です!」と偉そうに“演説”をぶちまけて押し通しました。

 ――年上の大先輩を相手になぜそこまでできたのでしょう

 鎌田氏:まさにこの時、自分の味方は自分しかいないと悟ったのがひとつ。筒美先生と歩んできた時間を裏切れないこともひとつ。そしてバンド時代に本当にひどい目に遭ってきましたから、「べつにこれで命を取られるわけではない!」と腹をくくれたこともあります。実は作詞家のちあき哲也さんに黙って歌詞も直して、後で僕はめちゃくちゃ怒られたのですが、その時思いました。「17歳からこの仕事をしてきて良かった!」と。それまでもあり得ない経験ばかりしてきたから、ここを乗り切れたんです。普通に大学を出て就職して、そんな道だったら間違いなく心が折れてたでしょう。

 ――次回は鎌田さんの過去のお話を聞かせてください。(続く)

★プロフィル=かまだ・としや 東京都世田谷区出身。高校在学中に17歳でプロデビューし、子供ばんど、五十嵐浩晃のツアーバンドなどを経てプロデューサーに。ジャニーズのほかKiroroの「長い間」「未来へ」など数々のヒット曲をプロデュース。現在は中国にも拠点を持つ。悦音堂文化(北京)有限公司代表。カンタナ代表。