【久保康生 魔改造の手腕(14)】また、私の現役時代に話を戻します。1979年オフの米球界への留学を経て、80年にはプロ初勝利を含む8勝3セーブ。チームの連覇に貢献することができました。
その2年後の82年には自己最多の15完投、12勝を挙げることができました。開幕第2戦となった4月5日、阪急戦(西宮)で完投勝利を挙げると、そのまま7試合連続完投で一気に6勝1敗とローテの軸となりました。
ただ、そこから順調に右肩上がりとはいきませんでした。83年は29試合で5勝10敗2セーブ、84年は36試合で5勝6敗2セーブ、85年は30試合で2勝1敗、防御率7・62と大きく成績を下げました。
ただ、86年は不調だった前年とは打って変わって、ものすごく調子自体は良かったんです。2完投を含む4勝を挙げ、快調に投げていました。
ヒールアップして飛んで投げていた時期です。ボール自体も速くて力投タイプの投球スタイルでした。
ところが、時期は定かではないのですが後楽園の日本ハム戦でアクシデントが起こりました。確か古屋英夫(日本ハム、阪神など)さんか、二村忠美に本塁打を打たれたんです。そのボールを投げた瞬間、右ヒジを痛めてしまいました。
捕手は梨田昌孝(元近鉄、日本ハム、楽天監督)さんでした。思い切り振りかぶって、思い切り腕を振って投げました。そうしたら右ヒジの靱帯が上腕の付着部から引きちぎれる形で、剥離骨折してしまいました。
靱帯自体を痛めてはいなかったので、今では有名になったトミー・ジョン手術を受けたわけではありません。骨に穴を開けて生きている靱帯をくくって縫合するという、結構な大手術を施していただきました。
そうなのですが、もう翌87年の4月には二軍戦で投げていました。実際は痛かったんですけどね。主治医の先生方も「しっかり縫合してあるから投げても大丈夫」と太鼓判をいただいてましたので、信じて投げていました。
それでも87年は振るいませんでした。12試合に登板し0勝2敗1セーブ、防御率5・40という数字でした。その翌年となった88年は仰木彬監督の就任1年目でした。当然、新監督は新戦力を求めます。
私はケガから復帰はしましたが、なかなか登板のチャンスをもらうことができませんでした。若手がどんどん台頭し、自分の居場所を失ったと感じていました。阿波野秀幸(近鉄、横浜、巨人など)、吉井理人(ロッテ投手コーチ=近鉄から元メッツなど)や山崎慎太郎(近鉄、広島、オリックスなど)ら、生きのいい投手が出てきました。
ヒジを痛めて手術を経験し出場機会を失った。このこと自体は後になってみればいい経験でした。故障をして、リハビリでもう一度、立ち上げてくるという選手たちを、コーチとしてもたくさん見てきました。そこでの選手たちとの接し方という部分では、自分の手術の経験は大きかったですね。
現役で21年、コーチとして23年、合計すれば44年にわたってユニホームを着させてもらいましたからね。本当に一つひとつの事柄が大きい経験となり、自分のコーチング技術に加味されている、蓄積されていると考えています。
88年、苦境に立たされた私は自分なりに考えました。このまま近鉄に在籍していてはチャンスがない。30歳という年齢を迎えることになったそのシーズン、私は新たな可能性を求めて行動に出ました。
☆くぼ・やすお 1958年4月8日、福岡県生まれ。柳川商高では2年の選抜、3年の夏に甲子園を経験。76年近鉄のドラフト1位でプロ入りした。80年にプロ初勝利を挙げるなど8勝3セーブでリーグ優勝に貢献。82年は自己最多の12勝をマーク。88年途中に阪神へ移籍。96年、近鉄に復帰し97年限りで現役引退。その後は近鉄、阪神、ソフトバンク、韓国・斗山で投手コーチを務めた。元MLBの大塚晶文、岩隈久志らを育成した手腕は球界では評判。現在は大和高田クラブのアドバイザーを務める。NPB通算71勝62敗30セーブ、防御率4.32。












