【久保康生 魔改造の手腕(11)】1976年ドラフト1位で近鉄に指名され、私のプロ入りが実現しました。西本幸雄監督3年目から4年目に入るチームで、伸び盛りのいいチームでした。

 私が入団して3年目の79年シーズン、チームはリーグ優勝を決めました。前期優勝を決め、後期優勝の阪急をプレーオフで下しての頂点です。

 阪急の5連覇を阻止し、近鉄は創設30年目で初の優勝です。西本監督になって6年目のシーズンでした。

 日本シリーズは古葉竹識監督率いる広島との対戦です。第7戦にまでもつれ、9回裏の攻防はスポーツライター・山際淳司さんのノンフィクション小説「江夏の21球」として知られています。

 ただ、私はそのシーズンは5試合に登板したのみでした。日本シリーズのベンチ入りメンバーからも外れ「君たちは来年からの戦力と考えている。今からアメリカに行ってこい」と言われました。

 監督室に6選手が呼ばれてアメリカ教育リーグへの派遣を命じられました。そこからフロリダ州・ブラデントンに移動です。現地で日本シリーズでは近鉄が敗退したニュースを聞きました。

 私にとってはプロ入りから3年間は未勝利です。79年オフに米教育リーグに派遣され、その翌年からが本当のプロ野球人生が始まったと言っていいと思います。

 もうそれまでは鳴かず飛ばずというか、私自身ドラフト1位の名がすたるという思いでもがいていました。

 高卒なので長い目でというのではなく、高校生でも即戦力という評価でドラフト指名されたという雰囲気がありました。

 当然、風当たりもきついし危機感でいっぱいでした。もう1年もすると大学に進学した同級生たちがプロ入りしてくるわけです。4年目には絶対に勝ってやる、同期になる選手たちに負けられないという思いでした。

 西本監督に「アメリカでもう1回勉強してこい」と言われて、本当にそこからでしたもんね。すごく、本当にいい勉強になりました。

 フォームももう全部変えました。目からウロコの連続でした。それこそもう逆転の発想です。よくアメリカ人は「手投げ」だと言われるじゃないですか。

 よし、それなら「手投げ」してやろうと思ったんですよ。足も使わない。体も使わない。アメリカ人はとにかく上体が強いから手で投げるとかいう、そういう話が横行していましたから、それにならってやろうと思ったんです。

 そうしたらもう、全身が稲妻に打たれたような感覚ですよ。もうね、降りてきましたね。天使が。いやあ、これか、この感覚か。まさにこれかという感覚です。

 その翌年、80年シーズンは34試合に登板し10先発、4完投で8勝4敗3セーブの成績で優勝に貢献することができました。

 6月15日の日本ハムとの前期10回戦(藤井寺)でリリーフ登板しプロ初勝利を挙げました。チャーリー・マニエル(2度のパ・リーグ本塁打王、のちにMLBインディアンス、フィリーズ監督)さんがソロ本塁打2本を打ってくれたはずです。

 そこからトントン拍子で勝ち続けて後期優勝に貢献できました。ロッテとのプレーオフも制してチームの連覇に貢献。西本監督の予言通りにアメリカで成長して優勝の輪に入れたのが印象に残っています。

 追い詰められて、アメリカの地で逆転の発想からチャンスをつかんだ。この事実も私の引き出しの一つになっていることは間違いありません。