【越智正典 ネット裏】1951年、飯田徳治はパ・リーグ打点王(87打点、2位毎日別所薫67打点)になった。南海は38年春結団。秋に公式戦に出場してから3度目の優勝を遂げた。この年南海は開幕から独走。最終は2位西鉄を18・5ゲーム引き離していた。

 最高殊勲選手(63年に最優秀選手賞に改定)は鶴岡一人。鶴岡はそれまで後進に道をゆずろうと大半ベンチに引っ込んでいたが、この「親分」、この年は出陣。チームに筋金が入った。打席に立った鶴岡のこめかみがピクピクと動くと、ナインは「そーれ、打つぞ!」と喜んだ。それでも鶴岡は試合の帰りに堺の医師泉谷太郎の家に寄り、呑み、炭坑ぶしを唄うのだが、歌の途中で酔いつぶれた。プレーイングマネジャーだったので人知れぬ苦労ばかりであったのだろう。

 鶴岡といったが、鶴岡は46年から58年まで姓は「山本」である。プロ野球の公式記録は「山本一人」になっている。山本は夫人文子さんちの姓である。家は山口県周防大島。春はレンゲ草が、夏は金魚提灯がキレイで、秋が近づくと、山口県柳井を出港するポンポン船を赤トンボが迎えに来てくれる(今は架橋)。

 山の上の文子さんの実家におとうさんの山本金蔵さんをお訪ねすると、おおらかなお人柄であった。鶴岡とぴったりだと思われた。終戦直後の苦しいときに「今月もスミマセン」。選手がオカネを借りに来た。「おとうちゃんには内緒にしといてね」。ヘソクリから渡した。彼女はひょいと心付けを添えるのを忘れなかった。鶴岡を「親分」にしたのは文子さんである。

 あの早慶6連戦の早大の捕手野村徹(北野高、早大卒業後、大昭和製紙、同監督、早大監督で4連覇、ソフトバンク・和田毅やヤクルト・青木宣親を育てている)は、周防大島の思い出を大事にしている。上海で終戦、引き揚げ少年だった彼はおかあさんの故郷のこの島に帰って来てから少年野球。鶴岡のコーチを受けている。「うれしくてレンゲが咲いている原っぱを走って行きました」。

 前創価大学監督岸雅司の伯父さんは金魚提灯造りの名人である。

 話がちょっとそれたが、ここではこれからも鶴岡で話します。山本というと別人ではないかと、思われるのが心配です。

 鶴岡は戦前、東京六大学の名三塁手、プレーのひとつひとつが味わい深かった(広島商業、法政大学)。そのころ法政大のグラウンドはいまの西武新宿線新井薬師駅の踏切りのところにあった。

 飯田徳治が最初に打点王になった51年は朝鮮戦争真っ只中で、終結のため北爆を主張する連合国軍最高司令官、元帥、ダグラス・マッカーサーが4月11日、ハリー・トルーマン大統領に解任された年である。4月16日午前7時、マッカーサーは愛機コンステレーション、バターン号のタラップをのぼって行った。元帥帽を目深にかぶっていた。報道陣には頬が紅潮しているように見えた。離日である。羽田の上空には爆撃機B29が4機、地上には礼砲。日本の占領政策が変わり始めるかも知れなかった。飯田は翌52年も打点王になる。 =敬称略=