【藤田太陽連載コラム】父が星一徹に豹変!! クタクタだった毎日

2021年01月15日 11時00分

現役時代の佐野は6番打者として1985年の日本一に貢献した

【藤田太陽「ライジング・サン」(7)】東北地方の私立強豪校ではなく地元、秋田県内の公立高校の新屋高に進学しました。環境やブランドではなく、監督の人柄にほれて。思えば阪神の佐野スカウトに熱心に誘われ入団した経緯とリンクします。

 佐野さんはあまりゴリ押ししてくるタイプではなかった。僕自身も感情を荒らげるタイプではないので波長が合いました。「おい、どうよ、調子は?」という勢いのあるタイプの人に安心感を感じないんでしょうね。

「心配しなくても大丈夫よ。自分のペースでやりなさい。俺はずっと見ているから。信用して。裏切らないから」と言ってくれた佐野さんに、諭されるようにタイガースに入団する流れになった気がします。

 実は現役時代の佐野さんのことはあまり知らなかったんです。映像で見ているくらいですかね。1985年の阪神の優勝メンバーで6番・左翼だったということは知っています。僕が子供のころからの阪神ファンだったら、佐野さんにスカウトしてもらえるだけで有頂天だったでしょう。

 話がそれました。とにかく、僕は自分の意思で高校を選んで進学しました。安心して自分を預けることのできる監督にお世話になりました。でも、それでも投手になるのは3年生からです。

 最初は外野手からスタートしました。もともと、ヒジに痛みを持っていたので最大限に配慮してもらいました。外野から全身を使って投げることを癖づけることで、肩ヒジを強化する目的もありました。

 軟式野球から硬式野球への転向で、肩ヒジの負担をケアするという方向性もありました。投手として自分中心のチームになる前にまず、外野からちゃんと野球を見なさいというメッセージもありました。

 投手としてデビューした時に、マウンドで独りよがりの投球をしないように。2年の秋まで外野を守りました。監督にはそういった説明をしっかりしていただきました。自分も納得してその方針に従いました。そこまでは4番・右翼の藤田として試合に出場し続けていました。硬式野球になって僕の中で激変したのは打撃力でしたね。

 そのころ、父が一気に星一徹(野球漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父)に豹変しました。家に帰ったら鉄棒が設置されていました。帰宅して階段を上がったら、どんなにクタクタでも、もも上げ1000回、シャドーピッチング、素振りなどトレーニングメニューを全部やりました。

 高校でも一通りの練習をしてきているわけですから、もうそんなのクタクタですよ。でも、それが終わると父が必ずアイシングしながら全身マッサージしてくれました。僕はそのまま寝落ちしてしまうという毎日でしたね。

 自宅の目の前には国立高専があって、そこのグラウンドの400メートルトラックを8キロのランニングです。そこから高校には片道1時間半かけて自転車で通っていました。そして、帰りがけには父がすでに球場に迎えに来ていて、夜のトレーニングという流れです。

 いくら若いといっても本当にしんどかったです。でも、やらされている練習でも、これだけやれば身につきます。3年生で投手デビューするころには…そんな計算をするわけでもなくガムシャラに体を鍛えていました。

 ☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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