〝火の玉〟を燃やした屈辱と栄光…藤川球児は「WBC」抜きに語れない

2020年11月11日 05時15分

最後は笑顔で甲子園に別れを告げた藤川。日本だけでなく世界を舞台に戦ってきた

【楊枝秀基のワッショイ!スポーツ見聞録】あの悔しさは藤川球児をグンと成長させたに違いない。2009年3月に開催されたWBCでの出来事。すでに虎の守護神としての立場を確固たるものにしていた。日本を代表するクローザーとしての自負もあっただろう。だが、決勝戦を締めたのは、自分ではなかった。

 野球ファンの記憶に今でも残っているだろう。延長10回にイチローが決勝打。最後はダルビッシュが締めたあのロサンゼルスの歓喜を。その瞬間、球児は左翼奥のブルペンで準備していた。守護神を譲った若き右腕の「まさか」に備えて。

 原監督率いる侍ジャパンは松坂、岩隈、ダルビッシュの3本柱で先発陣を構成。クローザーに藤川を据えていた。実際、強化試合1試合と第1、第2ラウンドの4試合では試合を締める役割を藤川が担っていた。

 だが、準決勝から方針転換。先発予定のなくなった伸び盛りのダルビッシュを、守護神に抜擢するプランを実行した。当然、藤川には事情を説明し了解を得るはずだった。だが、伝達段階で手違いが発生。本人への通達が曖昧になり、信頼関係にヒビが入った。

 あれから10年以上が経過した。藤川は「そんなこともあったねぇ。でも、何も恨み言とかないよ。僕らはみんなで勝ったんやから」と振り返る。だが、あの当時は心中穏やかだった訳がない。スーパースターのプライドが大きく傷つけられたに違いない。

 世界一の瞬間をブルペンで迎えた藤川。傷ついた心を癒やしたのは松坂だった。「球児の様子が心配で、ベンチで(戦況を)見ていられなかった」という同級生がブルペンに駆けつけていた。二人は少し遠くから歓喜の輪に加わった。

 藤川とWBCといえば、2006年の第1回大会でも苦い経験があった。2次リーグの米国戦だ。同点の9回から登板。失策などで一死満塁のピンチを背負い、ケン・グリフィーJr.を空振り三振に仕留めた。だが、続くアレックス・ロドリゲスにサヨナラ中前適時打を許し敗戦投手となった。

 WBCにはあまりいい思い出はない? そう聞くと「そんなことないよ。成績というのはトータルで見てくださいよ。僕の代表メンバーとしての数字をちゃんと見てくださいよ」と意地っ張り?な言葉が返ってきた。

 調べてみると06年、09年の2大会で計8試合、6回2/3で自責点0の防御率0・00。確かに。さすがの負けん気を認めざるを得ない。

 時には、世界大会に匹敵する重圧に打ち勝たなければいけない虎の守護神。栄光も挫折も受け入れて取材に応じ続けてくれた。稀代のレジェンドよありがとう。そして、お疲れ様でした。

☆ようじ・ひでき 1973年8月6日生まれ。神戸市出身。関西学院大卒。98年から「デイリースポーツ」で巨人、阪神などプロ野球担当記者として活躍。2013年10月独立。プロ野球だけではなくスポーツ全般、格闘技、芸能とジャンルにとらわれぬフィールドに人脈を持つ。