【野球の構造 正田耕三(28)】プロ野球は「生き馬の目を抜く世界」だと言われます。痛いのかゆいの言って休んでいては、あっという間に他の選手に取って代わられてしまいます。ましてや僕はエースでもなければ、ホームランを量産する長距離打者でもありません。レギュラー奪取に大きく前進した1986年に、7月6日の大洋戦で右手中指を骨折した際も「指は5本ある。1本ぐらい折れていたって…」と試合に出続けることを自ら選びました。

 痛みをこらえて出場した7月8日の阪神戦は延長10回の末に0―0で引き分けとなりましたが、僕は最後まで出続け、先発の仲田幸司から3打席目に右前打を放っています。むしろつらかったのは守備。グラブで捕球したボールを右手で握る瞬間に激痛が走りました。

 結果から言うと、僕は翌9日の同カードから前半最終戦となった17日の巨人戦まで5試合を欠場しました。骨折を知らなかったことにして、試合に出続けるよう背中を押してくれた球団の種田博人トレーナーが、打撃コーチの内田順三さんにだけは本当のことを言っていたそうです。それでひとまず、球宴休みも含めて治療を優先させようということになったのでしょう。
 
 それでも練習だけは続けていました。そもそもカープは鉄人と言われた衣笠祥雄さんに限らず、山本浩二さんや高橋慶彦さんにしても、少しぐらいどこか痛くても試合に出続けるのが当たり前のチームでした。そんな先輩たちの背中を見ていたことも、僕にとってはプラスに働いていたのだと思います。骨折した右手中指の第一関節は今も変形したままですが、後悔などあろうはずがありません。球宴明け初戦となった7月25日の甲子園球場での阪神戦で先発出場させてもらえたのも、頑張り続けていたご褒美だったような気がします。

 この年のカープは王貞治監督率いる巨人と球史に残るデッドヒートを繰り広げました。特に神がかっていたのがシーズン最終盤の10月です。9月終了時点でカープは1・5ゲーム差の2位。優勝マジックは9月23日からの直接対決に勝ち越したカープに点灯していましたが、巨人はそこから5連勝で首位を奪い返して勢いに乗っていました。

 カープは10月1日の阪神戦に0―4で敗れて残り9試合。1敗も許されない状況から8連勝と快進撃し、129試合目となる10月12日のヤクルト戦でリーグ制覇を決めました。

 あの独特の緊張感と高揚感は、グラウンドに立った者にしか分かりません。84年ロサンゼルス五輪の米国との決勝戦でも似たような感覚を味わいましたが、あのときは完全アウェー。就任1年目の阿南準郎監督が宙に舞った、あの日の真っ赤に染まった神宮球場の光景は今でも鮮明に覚えています。

 しょうだ・こうぞう 1962年1月2日生まれ。和歌山県和歌山市出身。市立和歌山商業(現市立和歌山)から社会人の新日鉄広畑(現日本製鉄広畑)に進み、84年ロサンゼルス五輪で金メダル獲得。同年のドラフト2位で広島入団。85年秋から両打ちに転向する。86年に二塁のレギュラーに定着し、リーグVに貢献。87、88年に2年連続で首位打者、89年は盗塁王に輝く。87年から5年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。98年に引退後は広島、近鉄、阪神、オリックスほか韓国プロ野球でもコーチを務めた。現役時代の通算成績は1565試合で1546安打、146盗塁、打率2割8分7厘。