関根潤三さん93歳死去 伊勢孝夫氏が叩き込まれたセキネモ打撃理論

2020年04月10日 16時30分

65年1月、同じく移籍1年目の金田正一(中)を王貞治(左)と持ち上げて笑顔の関根さん

 元プロ野球大洋(現DeNA)、ヤクルト監督の関根潤三氏が9日午前9時45分、老衰のため東京都内の病院で死去した。93歳。現役時代は“二刀流”の先駆けとして、指導者としては多くの有望選手を育て、ラジオやテレビの解説者としては、温厚な人柄と語り口で多くの野球ファンに親しまれた。本紙評論家たちにも深い悲しみが広がり、近鉄の後輩でヤクルト監督時代にコーチとして支えた伊勢孝夫氏が悼んだ。

 関根さんは近鉄時代の大先輩で、私が投手として入団したころはバリバリの外野のレギュラーだった。私のいた藤井寺の寮の前の団地に住んでおられ、食事をしに寮によく来られていた。それに当時は今のような打撃投手はおらず、一軍の練習に二軍の若手投手が駆り出され、コントロールのよかった私は大阪球場、日生球場、藤井寺球場に呼ばれて行った。それで関根さんに「ありがとう」と声を掛けられるようになった。

 当時は怖い先輩もいたが、関根さんは温厚でやさしかった。根本陸夫さんと仲がよく、根本さんは近鉄を引退してコーチで残っていたので、よく2人で室内練習場にいた。根本さんの横で関根さんが打撃練習をし「ネモ、これでええかあ?」って聞いていたのを覚えている。

 そんな「関根・根本の打撃理論」は私が野手に転向した時、小森光生コーチに教え込まれた。素振りの構えからテークバック、ステップまでを延々と繰り返し、スイングをさせてくれない。体重のかけ方、ひねり方をキープしてトップの位置を確認するもので、やっている時は「なんでこんなことばかりするんだ」って思った。でもそれで下半身が鍛えられ、下半身でボールを捉える意識付けになる。後に私が指導者になってもずっと選手に教えていることだ。

 1989年はヤクルトで監督、二軍打撃コーチの関係になったが、その時も近鉄時代と印象は変わらず、ソフトで穏やかなまま。たまに会っても「元気にしてるか~」っていう感じで、接し方は同じ。厳しさはあったと思うが、二軍コーチにはみじんも見せなかった。

 5年ほど前だったか、近鉄のOB会で話した。OB会長だった関根さんは松葉づえをつき「どうされたんですか」と聞くと「風呂場で転んでヒザの皿が割れたんだよ」と…。「気をつけてくださいよ」と声をかけたが、それが最後となってしまった。(本紙評論家)

☆せきね・じゅんぞう 1927年3月15日生まれ。東京都出身。法政大で41勝を挙げ、50年に近鉄入団。53年から3年連続2桁勝利を挙げ、57年から外野手に転向した。オールスター戦に5度出場し、投手と野手の両部門でファン投票で選出された。現役通算は投手で65勝94敗、防御率3・42。打者で打率2割7分9厘、59本塁打、424打点。大洋とヤクルトで各3年監督を務め、通算331勝408敗41分け。2003年に野球殿堂入りした。葬儀・告別式は家族葬で、日程は未定。喪主は長男優一(ゆういち)氏。