【越智正典 ネット裏】プロ野球で、ボルサリーノか、ノックスか、粋なソフトをななめにかぶって街を歩いていたのは、水原茂、岩本信一、それから根本陸夫。苦渋がなにもないように見えたのが男のオシャレであった。

 広島カープの野崎泰一がそうであった。1975年広島がキャンプのコーチに招いたウォーレン・スパーン(363勝、奪三振2583、73年殿堂入り)と意気投合。二人で街を歩くと、いまにもビング・クロスビーの歌が聞こえて来そうであった。

 野崎泰一は23年7月2日、当時軍港の広島県呉で生まれた。大正12年関東大震災の年である。呉港中学へ進んだ。呉港中学は丘の上。丘の上なので野球グラウンドを作れない。毎日のように丘を下り海軍工廠と試合。大人にもまれるので逞しくなる。呉港中学は34年、山陽大会(当時)決勝で広陵中学を破り、3年連続で第20回大会の甲子園へ。のちのミスタータイガース、藤村富美男の投打にわたる奮戦で全国優勝を果たした(決勝、川上哲治の熊本工業を2対0。奪三振14、被安打2)。大会史は藤村を「阿修羅の如し」と伝えている。

 野崎は戦前強力時代の専修大学に進んだ。38年、静岡キャンプを打ち上げた巨人は東京にグラウンドがなく、月島の専修大のグラウンドを借りている。野崎は間もなく野球が出来なくなった。戦争苛烈。43年に卒業。終戦。職業野球が復活した。野崎は甲子園球場が占領軍に接収されていた46年、阪神に入団。はや投げが人気を呼んだ。お客さんは野崎のピッチングに男の度胸を見たのだ。

 50年、プロ野球は2リーグに。誕生した広島カープの監督石本秀一が広島出身の選手に呼びかけた。「みんな“ヒロシマ”に帰ってこい!」

 52年、野崎は東急を経て戻って来た。が、翌年現役引退。野崎はユニホームを脱いでも、ふるさと球団に尽くしたかった。スカウトになった。が、この貧乏球団にはオカネがない。九州、四国、交通不便な奥へ行ってもタクシーに乗れない。テクテク歩いた。

 野崎を尊敬する59年カープ入団の大型三塁手興津達雄は「先輩は凄いです。1年間に少なくても靴10足は履き潰しました。池田高校の蔦監督がいちばん尊敬していたのは野崎さんですよ。カープを強くしたい野崎さんの精神が苑田(聡彦スカウト統括部長)に受け継がれているんです。カープは、また全国的には無名の選手を探して来て、二軍で鍛えてきっと黄金時代を作りますよ」

 苑田は毎年そうだが、昨年の暮れにもカープのカレンダーを一本持って興津の家に挨拶に行っている。興津が野崎のように思えるのだろう。

 野崎の話をしたら思い出した。61年に専修大から入団した山本兵吾がキャンプインの前にピッチングを教えて下さいと、訪ねてくると「バッターが打てん球を投げんかい!」。68年、コーチでカープに入団した早大、毎日、近鉄の小森光生が家に遊びに来ると大喜び。「めしを食べて行ってくれたあー。元気一杯の大めしだったあー」。野崎はそういう男である。 =敬称略=