【昭和~平成スター列伝】昭和の時代には「プロレスラーは親の死に目に会えない」とよくいわれたという。現在以上に地方遠征が毎日続き、試合数も多く日本全国を巡業する厳しい時代だったのだ。“世界の16文”こと故ジャイアント馬場さんもその一人だった。
日本プロレス時代の1968年10月31日、馬場は新潟に住む父親の一雄さんが危篤との連絡を受けた。しかしこの時は遠征中であり、シリーズ最終戦は11月6日神奈川・平塚大会。同8日に後楽園の次期シリーズ開幕戦に出場して、すぐに翌9日にはハワイ遠征へ出発という殺人的な超ハードスケジュールだった。しかも同2日には東京・蔵前国技館でインターナショナルヘビー級王座防衛戦を控えていた。不動のメインイベンターである馬場に欠場は許されなかったのである。
馬場はつらさに耐えて同年11月2日、東京・蔵前国技館で「殺人鬼」と異名を取ったK・K・コックスを撃破し、インターナショナル王座3度目(通算24回目)の防衛に成功している。
「馬場はこの決戦2日前(10月31日)に故郷の新潟・三条市の生家から緊急電話を受けていた。病床にあった父親の一雄さん(78)が発作を起こし意識不明になり、医者から危篤の宣告を受けていたのだ。馬場はそれを自分の胸にだけ秘めていた。この夜、血だるまでチャンピオンベルトを巻き控室に帰ってきた馬場は『俺はプロレスラー。何百万というファンのためにコックスを叩き潰さなくてはいけない。親父のことは天に祈るのみだった…』とつぶやいた。勝負に生きるものの根性である。大血戦は馬場が徹底的にスリーパー、ヘッドロックで攻めまくり1本目は反則勝ち。2本目は馬場が怒りの48発耳そぎチョップ連発もレフェリーにも水平打ちを入れて逆に反則負け。3本目はコックスのボディースラムを145キロで潰し、一気にボディープレス。流血地獄で3度目の防衛に成功した」(抜粋)
父・一雄さんは2週間後の11月15日に老衰で亡くなり、馬場は遠征先のハワイで訃報を聞いた。葬儀に出席できない悲しみをこらえ、その夜はワイキキの浜辺にレイ(花輪)を涙とともに流したという逸話が残っている。
和田京平名誉レフェリーは同じ思い出があると回想する。92年、社員旅行でハワイを訪れていた最中に父親が急逝したのだ。馬場は「すぐ帰れ」と言ったが、和田氏は御大のお付きがあるため、帰国を断った。
「馬場さんも遠征時に父親を亡くしてレイを海に流して追悼したとその時聞いた。『これからは俺たちを親と思え』とレイを買ってくれて、真夜中に1人、海に流して親父をしのんだんですよ。それからはずっと一緒。親同然ですよね」
99年1月に61歳で亡くなった馬場は、2018年から故元子夫人と共に兵庫・明石市の本松寺のお墓に眠る。墓前には16文シューズの原寸大の御影石がモニュメントとして置かれている。明石大橋を望む美しい高台のお墓には往年のファンの参拝が絶えない。今こそ心から安心して家族と日本のプロレス界を眺めているに違いない。 (敬称略)













