【全日本四天王が語る歴史の分岐点 田上明 王道の証明(4)】1987年8月、相撲部屋を飛び出した俺は落語家の三遊亭楽太郎(6代目三遊亭円楽)の紹介でジャイアント馬場さんと面会。同月にジャパンプロレスに入門することになった。
どうして全日本プロレスに入らなかったのかというと、その当時は輪島さん(※)がいたり、いっぱい相撲取りがプロレス界に入ってきて、角界との関係がデリケートだったんだ。馬場さんから「金が出てるところは一緒だから」って言われてね。練習は全日本の選手と一緒だったよ。
後に「四天王」と呼ばれるようになる三沢光晴、川田利明、小橋建太の3人に出会ったのもこのころ。三沢や川田はちょっとランクが上だったからもう試合をしていた。一番、顔を合わせたのは小橋だな。小橋といえば俺が入団する時に玉麒麟(相撲時代のしこ名)が入るって聞いて、事務所に新聞記者が何人か来てたんだけど、小橋が俺と間違えられたらしくて。今でも言われるよ。当時からよく練習はやってるやつだったよ。
でも交流なんか全然なくて、おじさん連中とばっかりつるんでたな。マイティ井上、永源遙、ラッシャー木村、ザ・グレート・カブキ。俺は付け人にならなかったからある程度自由だったんだよ。
力士からレスラーに転身して一番苦労したのは後ろ受け身。相撲だと負けちゃうからね。プロレスの技も覚えないといけないから大変だった。ちゃんとやっていたけど、練習は好きじゃなかったな。当時の給料は馬場さんに「お前アパートいくらだ」って聞かれて「10万円ぐらいですかね」って答えたら「じゃあ13万円で良いな」って。あとでおっかあ(清美夫人)に「これじゃ生活できない」って怒られたね。デビュー後はギャラ制で計算したら月に60万~80万円はもらっていた。
デビュー戦はジャパンから全日本に移籍した88年1月の後楽園ホール。馬場さんと組んでバディ・ランデル、ポール・ハリス組とのタッグマッチ。デビュー戦から組んでくれるなんて、馬場さんも気を使ってくれてたのかな。最後の弟子ぐらいに思ってくれてたんじゃねえかな。試合は必死でもう何やってるかわかんなかったよ。
観客に見られるのは相撲のころから慣れてたけど、雰囲気はまったく違ったね。最後はブロックバスターで投げ飛ばしてハリスから勝った。初戦から勝つなんて運が良かった。それか師匠が良いのか相手が良いのか…。
このころ、練習を教えてくれてたのは馬場さん。一番の教えは「技を大きく見せる」こと。人様に試合を見せる側だったからね。そしてもう一人がカブキさん。技のかけ方や腕の取り方みたいな細かいことを教えてくれた。毎日、毎試合必死だったね。
※第54代横綱













