燃える闘魂〟との本当の関係は――。昭和プロレスの重鎮で〝過激な仕掛け人〟こと新間寿さん(享年90)が4月21日に死去。プロレス界はいまだに悲しみに包まれている。

 1972年に故アントニオ猪木さんが旗揚げした新日本プロレスに入社。〝燃える闘魂〟の右腕として活躍し、76年6月には猪木 vs モハメド・アリの「格闘技世界一決定戦」を実現させ、初代タイガーマスクの誕生も企画。プロレス界に多大な影響を与えた一方で、猪木さんとは疎遠な時期もあった。特に89年のスポーツ平和党をめぐる告発は大騒動になり、「政治家」の猪木さんを糾弾した。

 だが2002年11月、当時の東京スポーツ新聞社・桜井康雄編集局長が立ち会いのもとで電撃和解した。当時、事前に話ができていたのか、猪木さんは新間さんに自ら歩み寄り握手。全てを水に流した新間さんは「猪木の前に猪木なく猪木の後にも猪木はないが、近いレスラーをつくる必要がある」と熱く語り、会談は約3時間に及んだ。屈託なく話し込む姿は、新日本黄金時代のままだった。

 一体、この2人の関係はどういうものなのか。猪木さんの実弟で、新日本の社員時代に営業部で新間さんの部下だった猪木啓介氏は、「兄貴との問題はなぜああいう状態になったのかは僕にはわからないし、聞いていない」とした上で「2回目の(参議院)議員の時に、新間さんが兄貴に『会わせてくれ』と言われたので連れて行った。それが2人が会った最後」と明かす。

「新間さんと会った際には、あまりにもアントニオ猪木を好きすぎた。それで憎さも出てきたのかもしれない」と話し、愛憎半ばする関係だったと見ている。「僕自身は新間さんはお兄さん的な存在。お願いしたら断られることはなかった。上司としても、営業関係ではすごかった」と語る啓介氏にも「不思議な」関係と映っていたという。

 元新日本社長で猪木さんの義理の息子だったサイモン・ケリー氏は、新間さんも幼少期から身近な人だった。「実際は、お互いに尊敬し合っていた。新間さんは何だかんだ言って、猪木さんをリスペクトしていたし、裏と表のパートナーとしてやっていた。誰も入れない関係」と話す。

 2人に確執が生まれることがあったのは「猪木さんの周りの人たちは、何年に1回かで代わるじゃないですか。(猪木さんは)新しいメンバーでやっていった人だから。この時期は新間さんで、この時期はこの人で、と。いろいろな話で周りが勝手に(確執を)盛り上げている部分もあったと思う。本人と本人の2人きりだったら、そこまでは全然ない」と指摘。猪木さんが側近を代えていったことで、名コンビにもズレが生じたのではないか…と推察している。

 いずれにせよ、猪木&新間の名コンビが日本のプロレス史を変えたのは間違いない。