【プロレス蔵出し写真館】今から39年前の1984年(昭和59年)3月4日、米イリノイ州シカゴでAWA世界ヘビー級新王者、ジャンボ鶴田が初防衛戦に臨んだ日、前座に懐かしいレスラーが登場した。
〝ブルクラ〟ことディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキー。一世を風靡した名コンビだ。
この日、ブルクラはスタン・ハンセン&ニック・ボックウィンクル組と対戦。ハンセンとの対決は、いわば新旧の〝暴れん坊〟対決だったが、衰えはいかんともしがたくブルーザーがハンセンのエルボードロップに沈んだ。
クラッシャーには今でも記憶に残る強烈なパフォーマンスがある。馬場とのインター戦に敗れ、試合後に日本テレビ徳光和夫アナのインタビューを受けてマイクにかじりつくシーンだ。プロレスラーは〝常人とは違う〟。子供ごころに、そんな意識が植え付けられた。
ところで〝ぶっ壊し屋〟クラッシャーが初来日したのは67年(昭和42年)11月29日。金髪を短くGIカットに刈り込み、黒革のコートをラフに羽織って右手には赤と黒ツートンカラーの手袋。葉巻を横ぐわえし、当時の東スポは典型的なギャングスタイルと報じている。
到着して空港特別室Cへ入るなり、「ビールを持って来い!」とどなった。特大のブランデーグラスが用意されるとビール3本を注ぎこみ、グイグイやり出す。
「オレはビールの本場ミルウォーキー育ちだ。こんなものは子供のときからお茶代わりに飲んでる」とうそぶき、「ビア樽ポルカ」のメロディーに乗せて〝ビール礼賛〟の歌を一曲披露するという意外に〝ひょうきん〟な一面も見せつけた。
12月6日、東京体育館で開催されるジャイアント馬場とのインターナショナル選手権の調印式が行われたのは、12月4日、永田町のグランドホテル。ビールをラッパ飲みする挑戦者を王者・馬場が苦々しい表情で見つめた(写真)。真ん中に座る川島正次郎コミッショナー(自民党副総裁)が、我関せずタバコをくゆらせているのも印象的だ。
ホテル宛てに馬場を激励する長文の電報が届いたというから、時代を感じさせる。
来日第1戦は12月1日の群馬・高崎大会。〝マルタの怪男爵〟バロン・シクルナと組み、インタータッグ王者チーム馬場&アントニオ猪木のBI砲と60分3本勝負で対戦した。
専門誌「ゴング」で資料整理係を務めた原正英さんは口角泡を飛ばし、「この試合でクラッシャーは偉業を成し遂げています。クラッシャーは、スカイブルーのスパンコールをつけ、派手な衣装で登場して…(中略)。馬場と猪木両方からフォールを奪って、2-0のストレート勝ちを収めた唯一のレスラーなんですよ」と教えてくれた。
試合展開を要約すると、1本目はクラッシャーが猪木をシュミット流バックブリーカーの体勢で抱え、シクルナのヒザに背骨を打ちつけ、反動をつけてのボディースラム。7分32秒で猪木を体固め。2本目は馬場にメリケンサックの乱打からボディースラムを決め4分14秒、体固め。クラッシャー1人が、2人からフォールを奪ったのだ。
昨年、「猪木戦記」全3巻を上梓したプロレスライターの流智美さんは、「クラッシャーを最大限に売り出す必要があった」と語る。
「国際プロレス(当時はTBSプロレス)の1月3日と鉢合わせ(興行)が決まっていたし、国際は生中継で毎週水曜日に中継しますって宣伝を開始した。1月3日にクラッシャーを来日させて馬場と一騎打ちでというプランが、このころから始まった」と解説してくれた。
果たして、馬場とのインター戦はレフェリー暴行で反則負けになったクラッシャーが、執拗に抗議して翌年の再戦が決まる。
年が明け1月3日、日本プロレスが蔵前国技館で馬場 vs クラッシャー、国際は日大講堂でルー・テーズ vsグレート草津のTWWA世界王座戦が行われた。隅田川を挟んでの興行戦争は〝隅田川決戦〟と称され、日プロが観客動員で大差をつけ勝利した。
記憶に残る暴れん坊クラッシャーが、BI砲を1人で〝粉砕〟するという記録を持っていたのは、新たな発見だった(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る














