【プロレス蔵出し写真館】7月11日は〝破壊王〟橋本真也の命日だった。橋本は2005年(平成17年)に脳幹出血で40歳という若さで急逝した。

 7月16日に横浜市西区の一休庵・久保山式場で告別式が行われ師匠・アントニオ猪木も参列した。30日には東京・南青山の青山葬儀所で「プロレス界・プロレスファン合同葬」が執り行われ、約8000人ものファンが集まった。

 発起人の小川直也があいさつしようとすると、「ヒューー」。急に強い風が吹き始め、飾ってある橋本のパネルがパタパタと揺れ始めた。小川は「ちゃんとやるからな。風が吹いて来ましたね。あの人はよく風を大事にする人でしたから」。そうパネルに語りかけた。人が亡くなると、思いもよらぬことが稀に起こる。

 思い返すと、橋本が坂口征二の付け人を務めていたころ、東北巡業中のある日、興行収益が入った坂口のアタッシェケースを前日の宿泊地に忘れてきたことが、到着先で発覚。移動バスに同乗させてもらい、到着した旅館でこの右往左往する状況を見ていたが、このときが〝若手の橋本〟を認識した最初だったように記憶している。

 現在だったら訴えられてもおかしくない、橋本の若手へのパワハラや度を越えたイタズラの数々、そして破天荒なエピソードは枚挙にいとまがない。

 さて、今から33年前の89年(平成元年)12月31日、新日本プロレスはソ連(当時=ロシア連邦)で初のプロレス興行「ボリブイ・フェスティバル」(モスクワ市レーニン運動公園内ルイージニキ室内競技場=1万2000人超満員)を開催した。

 この大会では参院議員だった猪木が7か月ぶりにリング復帰。猪木をはじめとする新日プロ一行は、到着したときからVIP待遇だった。モスクワのシュレメチェボ国際空港ではモスクワのサイキン市長、バリダーノフ将軍(内務省次官)という要人が出迎え、会見はVIPルーム。さらに会見後、空港から宿舎までVIP用のBMWのパトカーが先導して、ノンストップ移動でモスクワ市庁訪問、ボリショイサーカス、ボリショイバレエを鑑賞した。

 モスクワのゴス・テレビは連日、新日プロ勢の情報を放映していたという(試合は生中継)。

 VIP待遇を受けた新日レスラーだが、唯一、通訳からひんしゅくを買ったのは橋本だった。

 試合当日、クレムリン宮殿観光に行ったときのこと、展示されている巨大な大砲ツァーリ・プーシュカを前に上半身裸になってガッツポーズを取ったのだ。地元市民は、氷点下の中で裸になる日本人を不思議そうに眺めていたが、通訳は大あわて。「ここは日本でいえば国会議事堂の中だぞ。エチケット違反だ!」と橋本に説教。

 当の橋本は「だって警察は何も言わなかったよ」。説教にもどこ吹く風。らしさ全開だった。

 ところで、今でも記憶に残る思い出があるというのは、橋本と同学年のカメラマンE。

 90年3月、沖縄から奄美大島、徳之島、種子島と島めぐり巡業に同行したEは、オフ日の10日、種子島西之表市内で佐野直喜(後に巧真)、リングスタッフとディスコに繰り出す橋本を取材した。

ディスコで踊る橋本と佐野(90年3月、種子島西之表市)
ディスコで踊る橋本と佐野(90年3月、種子島西之表市)

「一緒に飲みながら、地元の女性たちと踊ってる橋本の写真を撮ってたら、途中から記憶がなくなりました。あとから聞いたら酒はテキーラでした。橋本に無理やり飲まされたわけじゃないですよ。翌朝5時くらいに気がつき、病院のベッドの上にいました。急性アルコール中毒でした。看護師さんには『大変だったんですよ』と言われましたね」とEは回想する。

 続けて、「なんとか、その日の会場だった、西之表市民体育館に着いたのは試合開始時間を過ぎてました。若手が『あっ、来た!?』って驚いてましたね。後日、橋本に『俺が担いで救急車まで運んだ』と言われました。橋本が亡くなってもう18年ですか…。あの時は橋本の迅速な対応で命拾いしました」と感謝を口にする。

 当時、救急車で運ばれた話を聞いた私は、橋本に「ウチの若いのが迷惑かけたね」と謝罪すると、橋本は「全然、大丈夫ですよ」。あの屈託のない笑顔で返してくれた。

 橋本と接した人間は、あの笑顔で橋本ファンになってしまう。存命なら58歳。逝くのは早すぎた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る