【森脇浩司 出逢いに感謝(39)】1991年に脳腫瘍で病床に伏していた津田恒実は急激に体調がよくなり、10月が過ぎ、11月にはさらに元気になってきた。退院という話も出てきたころ「どこに住みたいんだ」と聞くと「お前がいる福岡がいい」と言うので条件を聞き、近くに公園のある環境のいいところを探しました。歩けるようになったら、階段の上り下りができるほうがいいので2階建ての家がよかった。

 福岡市の桜が丘に家を決め、12月24日に退院。まず病院の横にあったデパートに息子さんのおもちゃのプレゼントを買いに行き、僕の車で家まで送って家族と合流しました。余命宣告を受け、退院までこぎつけた。本当によく頑張ったし、奥さんの大変さも近くで見ていたのでね。

 年が明けて春季キャンプが終わると家の留守番電話に津田からメッセージが入っていた。かけ直すと「トレーニングをしたいので近くのジムを紹介してくれ」という。まだ早いかなと思ったけど、そこのトレーナーに電話して津田の状態を伝え、紹介したんですね。ジムに時々通いながら3月、4月はよかった。

 でも、6月にまた体調が落ちてきた。「やっぱしか」というテンションになったと思う。92年8月下旬に再入院した時はさすがに元気もなく、2か月後くらいに意識がなくなってきて、集中治療室に入って…。そういう流れになっていった。

 そして亡くなったのは翌93年の7月20日。時間をかけて知り合いの人たちにあいつはお礼を言ったんだと思う。彼と友達になって、お互いにケガとかいろんなことがあった。チームが変わってもタイミングが合えば食事もする。そういう時、いつも2人で「お互い60歳になった時には還暦祝いで旅行に行こう」と言っていたんです。独身なら独身同士でいいし、結婚してたら家族同士で。津田は「お前は腰の骨も折って膝の靱帯も切れて車いすだろう。俺は片腕になっているかもしれない」って言ってたけど、それでもいいから60歳に行こうというのがお互いの約束だった。

 今、僕は60代ですが、30代のころから自分の60代の10年間が楽しみだった。どんな60代を迎えるのか。彼との旅行はできなくなったけど、そういうことを含めて60代を楽しみにし、30代から過ごしてきたんです。

 彼はいつも心の中に生きています。お互いに8月生まれ。近年は自然災害が増え、いろんなところで大きな被害が起きている。僕は津田の思いもくんで毎年8月に各地に寄付をさせてもらおうと決めた。鳥インフルエンザで大変だった宮崎からスタートさせ、100万円ですけど、いろんな被害にあったところにね。長く球界にいて、指導者もやらせてもらい、お世話になったのは一握り。彼はもういなくても、自分の中では同じ思いでやらせてもらっていますよ。