【プロレス蔵出し写真館】今から30年前、1993年(平成5年)9月21日、千葉の東京ベイNKホールで〝ハイブリッド・レスリング〟パンクラスが7000人(満員)の観衆を集めて旗揚げされた。

 完全実力主義を標榜して、後に〝秒殺〟という言葉がファンに浸透した。

 旗揚げ戦は全5試合。第1試合は鈴木みのるが解禁されたチョークスリーパーで3分25秒、稲垣克臣を締め落とした。第2試合はバス・ルッテンが柳澤龍志をオープンパンチ2発43秒でKOすれば、第3試合の冨宅裕輔(後の飛駈)は79秒でヴァーノン〝タイガー〟ホワイトを腕ひしぎ逆十字固めでギブアップさせた。そして、第4試合は高橋義生が83秒でジョージ・ワイングロフをキックでKO。

 試合を見て、既存のプロレス団体とは違うという認識がマスコミを始め、ファンの頭にインプットされた。肉体改造に取り組み、選手は皆アスリートのようだ。

 エースの船木誠勝はメインに登場し、ウェイン・シャムロックに6分15秒で裸絞め(当時の記録=肩固め)でまさかのギブアップ負け。仰向けのまま首と腕を固められ、まったく動けなかった。船木は後に、旗揚げできたうれしさと、負けた悔しさからトイレで声をあげて泣いたと告白している。

 世界最高峰の総合格闘技団体UFCのアルティメット・ファイティング第1回大会は、この年の11月のこと。総合格闘技というジャンルがなかった当時、パンクラスの試合展開と秒殺決着はまさに画期的なものだった。

 さて、そんなパンクラスでシャムロックと甲乙つけがたい実力者がルッテン。旗揚げ戦では、まだ無名のキックボクサーだったが、公開練習で見せた掌底の威力は半端ではなかった。

 船木とルッテンとの初遭遇は94年1月19日の横浜大会。パンクラスの方向性は分かっていたので、この試合はハードなものと予想できた。しかし、船木が上になって攻めていると、なんとカメラに向かって笑顔を見せるではないか(写真)。

 写真を見た船木は「これは凄い写真ですね。おそらく、このときのルッテンはグラウンドがほぼ知らない状態のキックボクサーだったので、勝利の確信からくる笑みだと思います。記憶にはありませんが」と明かしてくれた。

 試合は結局、上になった船木にルッテンが下からパンチを繰り出し、ルール違反に怒った船木は左足首を取ると、気合もろともねじ上げた。得意技のアンクルホールドを決め2分58秒で快勝した。ムッとした船木がアッという間に極めてしまったのを覚えている。

ルッテン(右)をアンクルホールドで秒殺した船木(1994年1月、横浜)
ルッテン(右)をアンクルホールドで秒殺した船木(1994年1月、横浜)

 試合後、船木は「スポーツマン。慣れてきたら怖い」と語ったが、この予想は的中する。ルッテンは船木よりも早くパンクラスの頂点、第3代のキング・オブ・パンクラス王座に就いている(95年9月1日、鈴木戦)。グラウンドは格段に上達していた。

 船木は満を持して96年9月7日、NKホールでルッテンの王座に挑戦した。

 グラウンドで優勢に試合を進め、打撃をかいくぐりテークダウンを奪う。上に乗りアキレス腱固めを決めるも極めきれず、ヒザ十字固めに移行。その後、何度も上になるが攻めあぐね(マウントポジションからの打撃は認められてはいなかった)、スタンドでの打撃戦になってしまう。そして、遂にルッテンの掌底を浴びダウン。2度目のダウンでは掌底を鼻に食らって鼻骨を骨折。鼻血が噴き出しドクターチェックを受ける。

 再開してからも強烈な張り手を食らいマットに突っ伏した。そして、最後はヒザ蹴りでダウンを喫し、5ロストポイント(ダウン4、ロープエスケープ1)を奪われレフェリーに止められ、17分5秒TKO負けで惨敗した。

 まさに壮絶に散った船木。試合が終わっても観客は誰も席を立たなかった。

 頭に引退もよぎったという船木は、マイクを握ると「オレは一生懸命やってきた。自分がどうなってもいいんだよ。一生懸命生きれば結果は絶対ウソつかないから。(でも)これがオレの結果だよ」と涙を浮かべる。

「今戦って思ってることは、悔いがなかったってことです。でもオレね、やり残したことがいっぱいあるんだよ。こんなとこで辞めてらんねぇーよ。明日からまた生きるぞ!」そう締めて、観客から温かい声援を浴びた。

マイクアピールする船木(1996年9月、東京ベイNKホール)
マイクアピールする船木(1996年9月、東京ベイNKホール)

 ところで、ルッテンはその後、家庭の事情で王座を返上。新王者決定トーナメントが行われ、この年12月15日に行われた決勝でジェイソン・デルーシアを破った船木が第4代王者に輝いた。

 パンクラスは今では競技として認知されている。船木は鈴木とともにパンクラス創世記を支えた(敬称略)。【プロレス蔵出し写真館】の記事をもっと見る