飛躍的に進化を遂げたコンピュータ将棋ソフト(AI)は既に人間を凌駕したとも言われているが、つい数年前までプロ棋士vs将棋ソフトの勝敗は揺らいでいた。

 プロ棋士と将棋ソフトのどちらが強いのか――。そんな誰もが関心を寄せる問いに対して、用意された舞台が「将棋電王戦」だった。世界コンピュータ将棋選手権を勝ち抜いた上位5ソフトとプロ棋士が戦う非公式戦。2012年から始まった注目の対決は紆余曲折をへて、2015年の「電王戦FINAL」まで続いた。

 2015年3月21日、永瀬拓矢(当時六段)は後手番で将棋ソフト「Selene」と相対した。その中盤戦で事件は起きた。88手目の「2七角不成」、永瀬がこの手を放った途端に将棋ソフトがフリーズしたのだ。混乱する対局場で永瀬は立会人に冷静に告げた。

「放っておくと(ソフトが)投了しますよ」

 将棋の駒は相手の陣地に入ると「成り」といって、より広範囲に動ける駒へと変身できる。特殊な局面を除いては、ほぼすべての駒が「成り」を選択し、特に本局面においては「角不成」とする合理的理由は一切見当たらなかった。

 将棋ソフトは、無駄な手を読むことを省くことで、より高速で正確な読みを進めていくため、永瀬の放ったこの「不合理な手」を認識できなかったのだ。

 本戦は各棋士が対局するソフトと事前に知らされており、永瀬は対局するソフトを入念に研究し、この「不具合」を発見していた(この不具合は対局時点では開発者含め、永瀬以外誰も気付いていない「盲点」だった)。

 孫子の兵法「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求める」。永瀬は徹底的な研究により、戦う前から勝っていたのだ。

 対局前に相手を研究し尽くし、勝つべくして勝つ。将棋に対するストイックな姿勢から「軍曹」という異名を持つ、永瀬らしい、徹底した研究に裏付けられた勝負術であった。