【石井和義の光と影♯3】1969年、高校1年で極真会館芦原道場の門を叩きました。実は当時家庭は大変で、ずっとアルバイトをしたんです。六畳一間で家族5人で生活。給食費も払えない状態だったので、小3から中学卒業までは新聞配達をしていました。

稽古する高校時代の石井館長
稽古する高校時代の石井館長

 そして高校生でアルバイトを開始。その上で試験に合格し特別奨学金をもらっていました。おかげで同級生よりお金持ちだったんです。月10万円くらいバイト代と奨学金。おかげでお金もたまりました。高2で親父が死んだとき、おふくろが「葬式を出す金がない」って言うから、ためたお金を全部渡したんです。その時初めて、おふくろが泣くのを見ました。それで仏壇を買って、家でお葬式したんですよ。

 おふくろは働きづめでした。親父は画家だけど仕事もせずに飲んだくれて魚釣りばかりしていて…。だから子供のころから自立心が強かったんだと思います。でも当時は楽しかったんですよ。学校が終わったらバイトして、高校卒業後、ためたお金でカワサキの「マッハⅢ」というバイクを買って。それに乗って愛媛から大阪に出ました。当時はデザイナーになりたかったんです。大阪でバイトをしながら専門学校に通って東京芸術大学を目指すことにしました。

 このころ大阪で“人生初の交渉”に成功しました。車の免許を持っていなかった僕は、バイクで百貨店の配達アルバイトをやっていましたけどあまりに効率が悪かったんです。そこで冬のお歳暮シーズン前にバイト先の社長に「お金を貸してください」とお願いしたんです。当然「なんで金を貸さないとアカンねや」となります。「そのお金で車の免許を取って、荷物をたくさん配りたいんです。だから貸してください」と頭を下げた。

 もちろん、社長は「おかしな論理やな。なんでアンタのためにワシが…」と言うたけど「絶対に僕はここに帰ってきて一番働きますから」って交渉。必要な資金を借りることができたんです。あれが人生初めての交渉です(笑い)。それで30万円くらい借りて、四国に帰って20日間くらいで免許を取りました。

 大阪に戻りトラックに乗って配達場所に団地を選んで回りました。階段は上るけど、空手で鍛えた足腰がある。だからビールケースの上にも荷物をいっぱい積んで階段を二段飛びくらいで上がって、ピンポンを鳴らして…。1日370個っていう記録を作りましたよ(笑い)。たしかバイト代は1個70~80円だったから300個だと1日で2万円くらい。月に70万円はもらっていたかな。それで社長にお金を返し、残ったお金で軽四の車を買いました。

 そうやって働いていると心境の変化が生まれます。それと同時に芦原英幸先生からもある「指令」が出されて…。

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